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第3話
翌日、広瀬が帰宅するとその日の昼に退院してきた東城が、玄関に出てきた。
「こんばんは」
その言葉を言うのに、わずかに躊躇ったことがわかる。どんな言葉をかけるのが適切か、迷ったのだろう。
だが、次の瞬間に、彼はニコっと朗らかに笑い、空気を軽快なものに変えた。そして、さりげない口調で聞いてくる。
「広瀬さん、誕生日いつ?」
突然の質問に広瀬は答えに窮した。
東城は、人懐こい笑顔で広瀬の回答を待っている。自分の誕生日がなんだというのだろうか。
わからない。理由はわからなかったが隠す必要もないので広瀬は答えた。
東城は、うなずき、ポケットからスマホをとりだした。そして画面を操作する。
「やった。開いた」と彼が言った。小さくガッツぽーつをしている。
顔をあげて当惑している広瀬に目を向ける。
「キーコードがわからなくて。下手にあてずっぽうでやるとあかなくなるから。俺のことだから、広瀬さんの誕生日を加工した番号にしているはず、って思ったんだ」と彼は言った。そして、画面を見せてくれる。「ほら、やっぱり開いた」
広瀬は画面を見てうなずいた。何と返事をすればいいのだろうか。会話が途切れる。広瀬の苦手な雰囲気だ。
東城が廊下の方をふりむき、広瀬が玄関からあがるよううながしてくる。それから、広瀬をみながら前を歩き、「夕飯は?食べた?」と聞いてくる。
「まだです」これから食べるのだ。
「よかった。一緒に食べよう」と東城は言った。「俺もまだなんだ。一人で食うと味気ないから」
広瀬はうなずいた。
どれが食べたいかを聞いて、温めていると、東城はキッチンでウロウロしながら、広瀬を見ていた。特に手伝うでもなく立っている様子を見て、そういえば、この人、前は何にもしなかったなと思い出した。
だが、ダイニングに食器やフォークなどを並べるように指示すると、驚いたようだったが素直に従った。なにをすべきか思いつかなかっただけなのだ。
そして、ダイニングに料理をもった皿を運ぶと、言われたことはきちんとやっていた。神経質に真っすぐに並べるのだ。この辺りは変わらずだ。本人なんだから当然だろうけど。
食事をはじめながら、彼が言った。
「明日から、仕事に行く」
「え?」広瀬は手を止めた。
「さっきまで竜崎さんが来てたんだ。竜崎さんっていうのは、俺の先輩で、福岡チームに入るきっかけの人で、って、そんなことは、広瀬さんはよく知ってるか」と東城は気づき、すぐに話を切り替えた。「記憶ないって話はしてたんだけど、仕事の内容自体は、前からやってるのとさしてかわりないし、身体は元気だから、できんじゃないかってことになった。人手不足だし、猫の手も借りたい状態なんだと思う。そうはいっても、福岡さんも少しは俺の今回の記憶喪失に責任感じてるみたいで、体調みながら、徐々に働いてみたらってことだ。すぐには長時間の激務ってことにはしないらしい」
「そうですか」と広瀬は答えた。
「ここにいても、暇でぼうっとしてるだけだし、記憶が戻るわけでもなさそうだから」と東城は言った。
彼は、食事をしながら他にも話をした。テレビでニュースをみて、総理大臣が変わっていないことに驚いたとか、自分の好きなサッカーチームの主力選手が移籍していたこととか。タイムスリップしたみたいで新鮮だといったことだ。話しぶりはいつもの彼そのもので、明るくて楽しいものだった。
そして、山のように盛った食事を、さらにおかわりしている広瀬に、「よく食べるんだ」と言った。「そんなに細いに、どこに入ってくんだ」と驚嘆していた。
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