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第6話
翌日の夜、仕事終わりはいつもの遅い時間だ。広瀬は、大井戸署を出て、駅に向かって歩き始めた。
しばらく進むと、前方から声をかけられた。聞き覚えのある声に顔をあげる。
やけに背の高い男だった。
「やあ」と彼は手をあげた。
広瀬は立ち止まり、一歩、後ろに下がった。
「私の顔をみて逃げ出そうとするなんて、傷つくな」と男は言った。
東城の親戚の、ベンチャーキャピタルを経営しているとかいう、東城達史だ。
人をからかうような、見透かすような口調で話してくる。彼は広瀬の進む方向に立ちふさがるようにいる。
「どいてください」
「帰るところだろう?飲みにいかないか?少し離れたところだけど、いい店がある」
「行きません」と広瀬は答えた。
「じゃあ、そうだな、家に送ろう。車をこの近くで待たせている。引っ越したそうだね。市朋グループの記念館の離れの屋敷で暮らしてるってきいたよ」
「自分で、電車で帰ります」
そう言って広瀬は達史を避けて歩き始めた。後ろから彼がしつこくついてくる。
「そう言わないで。力になれるんじゃないかと思ってきたんだ。弘一郎のこと、聞いたよ。ここ何年かの記憶がないんだって?」
達史はそう言った。
誰からか聞きつけたのだろう。耳が早いことだ。もしかすると昨日の東城の電話の相手からの情報かもしれない。
広瀬は地下鉄へ降りる階段の前まできた。達史もついてきた。このままついてくるつもりだろうか。広瀬は立ち止まり振り返った。
「一緒に電車に乗るかい?私の車で送るほうが君は快適で、おまけにセンシティブな話を公共の場でしなくていいだろう」
達史はそう言い、道路にむかって手を振った。
ゆっくりと重厚な車が近づいてくる。前と同じ、運転手付きの高級車だ。
ドアがあけられ、広瀬は諦めて乗り込んだ。
達史は、運転手に行き先を告げている。
「記憶がないってことを否定しないのは、本当だからなんだな」と達史は言った。
広瀬は黙っていた。返事をする義務はない。
「君、まだ、弘一郎と一緒に住んでるんだろう?弘一郎は君のことも覚えてないらしいじゃないか」
達史は少し眉を下げ、口調は同情しているものになる。
「こんな素敵な恋人のことを忘れるなんてねえ」と彼は言った。「君だって、平気じゃないだろう。自分のこと忘れてる相手と暮らすなんて。ましてや、数年前だったら、弘一郎は、どこかのお嬢さんと結婚しようかどうかって話してたくらいのころだろう」
広瀬は窓の外を見た。夜の街が流れていく。
大きなビルのわきを右折するを見て、はっと気が付いた「道が、違います」
「ちょっと遠回りするだけだよ。君と話をしたいからね。ちゃんと送るから安心して」と達史は言った。
広瀬は、ドアに手をかけた。信号で停まったら、開けて外に出ようか。
いや、そんな、自分がどうして逃げるようなことをしなければならないんだ。なにも悪いことしていないのに。
そして、ドアに手をかけた広瀬の腕を達史がつかんで止めた。
「おっと」と彼は言う。「車を急に降りたら危ないよ。刑事さんが街中で交通事故でひかれたりしたら笑い話にもならない」
広瀬は、達史の手をふりほどいた。
「そんなに嫌わなくてもいいじゃないか。君が困ってると思ってきたんだから」
広瀬はその言葉にあきれ、達史を見た。
「やっとこっちを向いててくれた。相変わらずきれいな目だね」
「困ってなどいません」
「困ってない?そうかな?同居している恋人が自分のことを覚えてないって、困ると思うけどな」達史は続ける。「家をでないのは、東城の奥様にいいくるめられたからだな。必ずよくなるからとかなんとか言われてるんだろう。彼女は、君が弘一郎と一緒にいるのがいいと思ってる。君と付き合いだしてから、弘一郎は、ずいぶん落ち着いて、大人になったからな。君は市村の大奥様と東城の奥様のお気に入りだ」
達史は相変わらず同情しているような表情だった。本心ではないだろう。余計腹が立つ。
「意地悪をいうつもりはないんだけど、前にも言ったように、弘一郎を市朋会で働くように勧めてるご婦人方がいる。弘一郎の記憶がなくなったって聞いたら、彼女たちは喜ぶだろうな。私が知っているくらいだから、かなりの人間が知っているはずだ。そのうち、弘一郎に」
達史はそう言って広瀬の顔をうかがってきた。
「前と同じようにきれいなお嫁さん候補を紹介してくるだろう。優秀な女医さんとか、そうだな、女医さんじゃなくても他にも市朋会の役に立てる女性は大勢いるだろう。経営のことがわかる会計士とか、他にもいくらでも考えられそうだ」
そして、続ける。
「君が、もし、引っ越す気があるなら、家を提供するよ。君の職場からもそう遠くない。設備も整っているマンションだ。一人暮らしには少し広いけど、居心地は悪くないよ」
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