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キングが家にやってきた 11
太陽が西に傾き始めたころ、雪生から電話がかかってきた。
『今おまえの家に向かっているところだ。もう間もなくそちらに着く』
「りょーかい。ところで雪生」
鳴は居間で一家団欒の最中だった。スマートフォンを耳に当てながら、こそこそと居間を後にする。
「言うの忘れてたけど、奴隷のことは家族には秘密にしておいてよ。みんなに変な心配かけたくないからさ」
『わかった。なるべく口を滑らせないようにするから安心しろ』
「いやいやいや、なるべくじゃなくて絶対に滑らせないでよ」
『善処する』
「善処じゃなくて――切りやがった……」
鳴はつーつーと音を立てるスマートフォンを恨めしげに見つめた。
マルガリータが楽しげに吠える声が聞こえたのは、電話を切ってから十五分後ほどのことだった。
鳴は慌てて玄関に向かった。庭に犬がいることを伝えるのをすっかり忘れていた。
マルガリータは人に噛みついたりは絶対にしないが、人間が大好きで誰彼かまわず戯れつく癖がある。あの高貴な雪生が雑種犬に戯れつかれるのを良しとするだろうか? 答えは否だ。
「マルガリータ! その人に戯れついたらダメ――って、あれ……?」
鳴は目を瞬いた。
雪生が尻尾を振りまくるマルガリータの前に跪き、優しい笑みを浮かべて顔を撫でていたからだ。動物なんて、それもしがない雑種犬なんて毛嫌いしそうなイメージなのに。
「雪生」
「門の鍵が空いていたから勝手に入ったぞ」
声は鳴に、視線はマルガリータに向けている。お高そうなスーツが汚れるのにも拘らず、膝を地面の上についている。ジャケットの胸元が汚れているのは、マルガリータが戯れて飛びかかったせいだろう。
「ごめん、犬を飼ってるの言い忘れてた。……犬好きなんだ?」
「ああ、人に懐く生き物はだいたい好きだ」
なんだか意外な一面を見てしまった。出会ってから初めて雪生に親近感が――ほんのちょっぴりだけど湧いた。
「この子の名前は?」
「マルガリータだよ。長いからいつもはマルって呼んでる」
「マルガリータ? マルガリータは女性の名前だぞ。この子はオスだろ」
「へー、女の子の名前だったんだ。知らなかった。まあ、そんなことはどうでもいいから、とりあえず家に上がってよ」
鳴は雪生を家の中へいざなった。これから家族に雪生を紹介するのかと思うと、なんだか微妙に緊張する。
「あ、そうだ。雪生、さっきも電話で言ったけど、例の件は内密にしてよ」
玄関に入りながら、鳴は念押しした。
「例の件?」
雪生は言われている意味がわからない、という顔で首を傾げた。
いつもは怖いくらい鋭いくせに、こういうときに限って鈍さを発揮するのはなぜなのか。鳴に対する無意識の嫌がらせに違いない。
「例の件は例の件だよ。ほら、ドのつくあれ」
「ドのつくあれ? ドバイ・ショックのことか? ずいぶん前の話だな」
「そうじゃなくて! ドって言ったらあれしかないでしょ!」
「ドルチェ&ガッバーナか?」
「違うよ! なにその呪文! そうじゃなくて奴隷だよ、奴隷!」
「奴隷ってなに?」
いきなり母親の声が聞こえた。ぎょっとして振り返ると、すぐ背後に母親の成美が立っていた。
鳴が玄関先で騒いでいるから様子を見にきたようだ。
「か、母さん……! ど、奴隷なんてひとことも言ってませんけど? どれにしようかなーって話をしてたんだよ。ねっ、雪生?」
「いや、そんな話はしていない」
雪生はあっさり否定した。こめかみを拳骨でぐりぐりしてやりたい。
「初めまして」
雪生は成美に向き直ると、よそ行きの綺麗な笑みを浮かべた。
「鳴君のルームメイトの桜雪生です。ご厚意に甘えて今日から四日間お世話になります」
礼儀正しく頭を下げる。
「まあ、しっかりしているのね。鳴とひとつしか違わないなんて思えないわ。たいしたおもてなしはできないけど、自分のおうちだと思って寛いでね」
大抵の婦女子なら雪生の容姿にうっとりする場面だが、成美は微笑ましそうな視線を向けるだけだった。さすがは年の功と言うべきだろうか。
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