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キングが家にやってきた 29
「トイレにいきたいならさっさといってこい」
「いや、トイレにいきたいわけじゃ――お茶を淹れるからそこに座って待っててよ」
鳴が急須を取り出すために背中を向けると、腕をぐいっとつかまれた。
「なに――」
「頬にごはんつぶがついてるぞ」
雪生は指先でごはんつぶを取って自分の口へ運んだ。
「――――」
心臓がとくんと跳ねる。
ごはんつぶを取ってもらっただけなのに、キスされるよりも恥ずかしいのはどうしてなのか。
「……あのさ、雪生。そういうのって普通は男同士じゃやらないんだよ」
「そういうの?」
「ほっぺについたごはんつぶを取って食べたり、ってことだよ」
「お米ひとつぶに七人の神様が宿っていると言うだろう。米つぶひとつだって大切だ」
「うちのじいちゃんみたいなこと言わないでよ。っていうか、俺が言いたいのはそういうことじゃなくって……まあいいや」
天才となんとかは紙一重とよく言うが、雪生もその例にもれず常識をどこかに置き去りにしてしまっている節がある。鳴がいくら世間様の常識を解いたところで馬の耳に念仏だろう。
鳴は溜息を吐きかけて、びくっと背筋を正した。雪生が鳴の顔を妙に熱っぽい眼差しで見つめているのに気づいたからだ。
夜更けの台所。傍らには六つのおにぎり。漂うのは海苔と唐揚げの香り。ムードなど欠片もないシチュエーションなのに、ラブストーリーの山場――告白シーンのような甘く張りつめた空気が漂った。
「な、なに――」
心臓が勝手にどくどくと高鳴る。雪生が鳴に告白する。そんなことがありえるはずがない。理性がそう訴えるのを無視して心臓の高鳴りは激しくなっていく。
が、雪生は鼓動の高鳴りを裏切るように顔をすっと横へ向けた。その途端、梅雨空を思わせる重々しく憂鬱そうな溜息が夜更けの台所に響き渡った。
「………………」
今朝といい今夜といいつくづくしみじみ失礼な男だ。人の顔に地獄絵図でも描いてあるとでも言うつもりか。
「……あのさ、人の顔を見て盛大な溜息を吐くのやめてくれない? いくらなんでも失礼でしょ。俺の顔になんか文句でもあるわけ?」
「……文句?」
雪生は憂鬱そのものの表情で鳴をちらりと見た。
「おまえに文句はない。いや、文句はあるが言ってもしかたないからな。おまえからマヌケをとったらおまえじゃなくなるからしかたない。その点はもう諦めた」
「いや、勝手に諦めないでくれる? ていうか、俺は別にマヌケじゃないし。ごく普通の少年だし」
「文句があるとしたら俺自身の悪趣味さ加減に対してだ」
悪趣味さ? 鳴は雪生の趣味が悪いと思ったことは一度もない。シンプルかつ黒がメインカラーの服装は、黒豹めいたこの少年によく似合っている。お高そうなスーツも然りだ。
「雪生の趣味はべつに悪くないと思うけど……」
「いや、最悪だ。これほど悪趣味な人間は他に見たことがない。自分で自分に嫌気が差す」
二十四時間いつでもどこでも自信たっぷりの雪生が己を卑下するだなんて。いったい何があったんだろう。ちょっと心配になってきた。
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