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キスの嵐 1
妙に長く感じられた四連休が終わると、ふたたび奴隷としての日常が始まった。
午前五時半。鳴は聞き慣れたアラーム音で目を覚ました。
「う……うん……」
ああ、また一日が始まった。着替えて、顔を洗って、制服に着替えて、それから一時間みっちり雪生の罵詈雑言を浴びて――
考えただけでどっと疲れる。が、いつまでもベッドでのろのろしているわけにはいかない。寝坊しようものなら朝食抜きという世にも恐ろしい刑が待っている。
「おはよう、鳴」
ベッドに上半身を起こすと、すでに制服のシャツとスラックスに着替えた雪生が声をかけてきた。相変わらず早起きだ。鳴より後に寝ているのに、鳴より先に目を覚ます。
鳴は、雪生が実家に泊まりにくるまで、雪生の寝顔を目にしたことが一度もなかった。
「……おはよう」
鳴は盛大な欠伸をしてからベッドから下りた。身支度を整えてミルクティーを淹れ終わると、時刻は六時数分前。アンティークな机に向かい、教科書とノートを広げる。
「あ、そうだ。鳴――」
隣に座っている雪生に呼ばれて振り向くと、すっと顔が近づいてきた。えっ、なに――と鳴が口にするより早く口と口が重なった。
もうすっかり慣れ親しんだ柔らかな感触を受けて、寝起きの心臓がドドドと慌ただしく動き始める。
「――――」
「俺としたことがうっかりしていた。おはようのキスを忘れるところだった。すまない」
「――……いや、あのさ、謝るところがおかしくない? ていうか、おはようのキスってなんなの」
「目が覚めて朝いちばんにするキスのことだ。おまえはそんなことも知らないのか?」
雪生は心底から呆れきった視線を送ってきた。
「そうじゃなくて! なんで俺にそんなことをするのかって訊いてんの!」
「このごろ主人として奴隷のおまえに対するスキンシップが足りていないと気がついたんだ。俺は深く反省した」
「いやいやいやいや! スキンシップならじゅうぶん過ぎるほど取ってるでしょ! 反省すべき点なら他にいくらでもあるでしょ!」
「これからおはようとおやすみのキスは欠かさないようにする。安心しろ」
雪生はにっこりと微笑んだ。春夏冬の生徒なら卒倒しかねない美しい笑みだったが、鳴は違った意味で卒倒しそうだった。
……安心の意味が崩壊している。会話も嚙み合っていない。もともとおかしかったがよりいっそうおかしさに磨きがかかってきてしまっている。
「今日は数学からだ。中間テストが近いから、今日からテスト対策としての勉強に切り替えていく」
雪生はキスなどなかったような涼しげな表情で、鳴の教科書を指差した。
言いたいことは山ほどあったが、何をどう言ったところで無駄だということは経験則からわかっている。鳴は溜息の変わりにほんのり甘いミルクティーをひと口飲むと、雪生の用意した問題に取りかかった。
朝食を済ませると、鳴と雪生は鞄を取りに部屋へもどった。学校指定のスクールバッグを肩にかけてドアへ向かう。
「あ、そうだ。鳴――」
え、なに――と口にする暇はやっぱりなかった。ちゅっと軽い音を立てて、唇はすぐに離れた。
心臓がピキッと音を立てて固まり、次の瞬間、全力疾走した後のように脈を打ち始める。
なんだって朝っぱらから心臓を酷使されなくちゃならないのか。いや、雪生のキスなんて慣れっこなのに、いちいち反応する心臓にも多少の非はあるが。
「ゴールデンウィークのおかげで今日はいつも以上に仕事がありそうだな」
雪生は何事もなかったような顔でドアノブを回し、部屋を出ていこうとする。
「……いや、あの、ちょっと待ってよ」
「どうかしたのか? 腹でも痛くなったのか」
痛いのは腹ではなく頭だ。あとついでに心臓だ。
「今のなに? なんだってこのタイミングで俺にキスしたりするわけ!?」
「ああ、今のはいってらっしゃいのキスだ」
「いや、おはようもいってらっしゃいも言葉だけでいいから! だいたいふたりとも出かけるのにいってらっしゃいのキスっておかしくない!?」
「しかたないだろ。俺とおまえは一緒に部屋を出て、一緒の部屋に帰ってくるんだから」
「いやいやいや、キスは義務じゃないんだから――」
「キスは主人としての義務だ。奴隷に淋しい思いをさせるようじゃ、いい主人とはとても言えないからな。さあ、いくぞ」
……どうしよう。もともと常識から外れたところのあるご主人様だったが、ゴールデンウィークが空けたらよりいっそう常識外れになってしまった。
鳴は頭を抱えてうずくまりたくなるのをどうにか堪えて、雪生の後をついていった。
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