143 / 279

キスの嵐 12

「な、なに――」  乱暴に腕を引っ張られて、よろめきながら椅子から腰を上げる。獰猛なまでに剣呑な眼差しとぶつかり、鳴はぎくっと肩を強張らせた。 (えっと、ひょっとしてひょっとしなくてもマジギレしちゃってる――!?)  好きな人の話は地雷だとうっかり忘れてしまった鳴も悪いかもしれない。が、人の初恋についてしつこく訊いておきながら、ちょっと訊かれただけで本気でキレるなんて理不尽というものだ。  胸倉をぐっとつかまれて、鳴は防御反応で目を閉じた。殴られるのを覚悟した瞬間――  温かく柔らかな感触が唇を覆った。このごろではすっかり慣れた、慣らされた感触。  頭の中が真っ白になる。  なんだってこのシチュエーションでキスされているのか。てっきり殴られるものとばかり思ったのに。そういえば雪生にはご褒美も罰もコミュニケーションもキスで済ませるという面倒くさがりな一面があったんだった。  慣れたはずのキスに硬直していると、舌が唇を割って入ってきた。反射的に身体が逃げようとしたが、胸倉をつかまれているので逃げるに逃げられない。  キスに慣れていると言っても舌を使うようなキスにはまだ慣れていない。 (まだってなんだまだって……! 未来永劫、慣れる予定とかありませんから!)  彼女いない歴イコール年齢のくせに男とのディープなキスに慣れてしまったらなにかが終わる。きっともう二度と平凡な世界に戻れない。  舌に舌が触れてびくっと身体が震えた。それが合図だったかのように胸倉から手が離れて、かわりに背中を抱き寄せられた。  ヤバイとマズイが頭の中をぐるぐる回る。鳴の惑溺などおかまいなしに雪生の舌は口の中を愛撫していく。 (ぎゃー! ちょっともうヤバイって! このままじゃ前みたいに勃っちゃうでしょ!)  手足をバタバタさせて抗いたいのに、腕ごと抱き寄せられているせいでそれもできない。足はといえば力が抜け落ちないように踏ん張るので精一杯だ。  自分で自分が情けない。いくらこの手のことに免疫がないからといって男にキスされて感じてしまうなんて。それも一度ならず二度、三度と。  唇が離れると同時に腕の力が緩んだ。ぐらっと身体が揺れて、その場に崩れ落ちる。 「これでわかったか?」  ぼんやりと顔を上げる。雪生は腰に手を当てて鳴を睥睨している。どこか開き直ったような表情で。 「……な、なにが?」 「……おまえは頭の天辺から爪先までマヌケだな。細胞ひとつ残らず混じりけなしのマヌケ成分百パーセントで作られているんだな。まあ、そんなことは今さら言うまでもなく自明の理だけどな」  鳴を見下ろす双眸にこめられた感情はなんだろう。呆れと嘲りと、それから諦め――? 「……っていうか、俺、雪生になんかした!? 好きな人は誰なのかって訊いただけでしょ! 教えたくないならそう言えばいいだけだろ!」 「なんだそのひどいことをされたみたいな言い草は。俺はおまえを気持ちよくしてやっただけだ」 「――――」  少しも悪びれないどころか尊大極まりない雪生の態度に、鳴は絶句した。いや、まあこういう男だととっくの昔にわかってはいたのだが。 「きっ、気持ちいいとかよくないとか、そーゆー問題じゃないでしょ! 雪生には貞操観念ってものがないわけ!?」 「けっきょく初恋の相手が誰なのか思い出せないままだったな。罰を与えたいところだが、前よりは多少進歩したから、今日はこれで許してやる」 「俺の話聞いてる!?」 「残りの時間はいつも通りの勉強だ。まずはその股間をどうにかしろ」  鳴は慌てて股間を両手で隠した。このパターン、これで何度目だろう。  雪生をギッと睨んだが、返ってきたのはいつも通りの涼しげな微笑。憎々しいことこの上ない。 (雪生の好きな人が誰なのかぜっっっったいに暴いてやる……!)  鳴に知られたらいくら雪生だって平然としていられないに違いない。好きな人は誰なのか訊かれただけで逆上するほどなのだ。 (今に見ていろ、桜雪生! 今度、涼しげな顔で微笑むのは俺なんだからな……!)  鳴は心で叫びながら、部屋のトイレに駆け込んだのだった。

ともだちにシェアしよう!