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借金よ、こんにちは 3

 ベンツの前に白髪混じりの男が立っている。ダークグレーのスーツをきっちり着こなし、純白の手袋を両手にはめている。  鳴はこの男に見覚えがあった。先日、渋谷で雪生に拾われた際の運転手だ。  初老の男は歩いてくる鳴と雪生に気づくと、恭しく頭を下げた。さすがは桜家に仕える運転手と言うべきか。美しい角度のお辞儀だった。 「雪生様、相馬様、おかえりなさいませ」  穏やかな笑みをふたりへ向けると、運転手は慣れた手つきで後部座席のドアを開けた。  雪生は鳴を先に乗せてから、続いて己も乗り込んだ。 「銀座のタカナシまで頼む」 「かしこまりました」  真っ白いベンツはなめらかに道を走り出した。しばらく走ったところでふと気がついた。 (スーツを買いにいくんなら、俺がついていく必要ないんじゃ?)  どうしてわざわざ鳴までつれていくのか。荷物持ちなのか、それともひとりじゃ淋しいからなのか。 (雪生ってけっこう淋しがり屋だからなあ。きっとひとりでスーツを選ぶのが淋しかったんだな)  鳴は胸の前で腕を組んでうんうんとうなずいた。その途端、このごろではすっかり慣れた痛み――容赦なく頬を抓られる痛みが襲いかかった。 「いだだだだ! いきなりなにするんだよ!」  鳴は抓られた左の頬を手で押さえながら雪生を睨んだ。返ってきたのは少々気分を害したような表情だ。 「なんとなく腹立たしい表情だったからだ」 「なんとなくで抓らないでくれる!?」  文句を言うと、楽しげな笑い声が運転席から聞こえてきた。 「おふたりとも相変わらず仲がよろしいですね」 「よろしくないです! 虐待に次ぐ虐待の毎日ですよ!?」 「誰がいつ誰を虐待した。人聞きの悪いことを言うな。俺はおまえを全力で可愛がってやっているだけだ」  本気で言ってるのかすっとぼけているのか。しれっとした表情からは読み取れない。 「それ本気で言ってるなら、絶対にペットを飼っちゃだめだよ。飼われた動物が可哀想だから」 「ペットは不要だ。おまえがいるからな」 「そっか、なら良かった……って、それどういう意味!?」  鳴が食ってかかっても、雪生はしれっとした表情を崩さない。鳴がいつもされているように頬を抓ってやりたいが、そんなことをしようものなら今度こそ本気で頬を千切られかねない。 「いやいや、ほんとうに仲がおよろしいですね。春輝(はるき)様がごらんになったら焼きもちを妬かれそうなほど」 「春輝様?」 「雪生様のご兄弟です。三つ年下の弟様ですよ。雪生様をとても慕ってらっしゃいます」  そういえば上と下に兄弟がいると、前に雪生が言っていた。雪生の兄弟ということは、雪生と同じくSAKURAグループのご子息ということだ。  やっぱり雪生レベルのイケメンかつ成績優秀かつスポーツ万能な完璧超人なんだろうか。雪生みたいな人間が三人もいる。想像するとなんだかちょっと恐ろしい。 「あいつはブラコンのきらいがあるからな」  小さなため息混じりの言葉だった。  雪生のような兄を持てば憧れるのは当然かもしれない。非常識さをのぞけば、これほど優れた人間にはなかなかお目にかかれるものではない。もっともその非常識さが大問題なのだが。  そんな話をしている間に目的地に到着したらしい。  ベンツはやはりなめらかに停車した。

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