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センチメンタルパーティー 1
「……よし、これで完成だ」
雪生はネクタイのノットを繊細な手つきで整えると、鳴の首許から手を離した。
土曜日――
待ちに待ったご馳走とご対面の日、もといSAKURAグループ会長の誕生日がやってきた。
時刻は午後五時。鳴と雪生はすでにスーツに着替え終えていた。鳴には生まれて初めてのスーツだ。雪生はおかしなところがないようにと入念にチェックした上、ネクタイまで結んでくれた。ヘアスタイルを整えたのも雪生だ。
雪生の世話はありがたいと言えばありがたかったのだが――
「……あのさ、どうしてそんな哀しそうな目で俺を見るわけ?」
鳴を見つめる雪生の瞳には悲哀がたっぷりとこもっている。まるで売られていく仔牛を見送るがごとき眼差しだ。
「気にするな。馬子にも衣装ということわざも、おまえのマヌケさの前には無効なのか、とある意味感心しているだけだ」
スーツなんて、それも桜家のご子息が利用するテーラーのスーツなんて、一庶民の鳴に着こなせるはずがない。
スーツが浮いている自覚はあったが、ほとんど無理やり買わせておきながらあまりにあまりな言い草だ。
「スーツが似合わなくって悪かったね。でも、これ、雪生が生地とかデザインとか指定して作らせたスーツなんだけど!?」
「すまない。スーツのレベルをおまえに合わせるべきだった」
雪生は心底から申し訳なさそうに謝罪したが、余計に腹立たしさが増しただけだ。
ちなみに鳴が着ているのはネイビーのスーツで、シャドーストライプの柄が入っている。ネクタイは臙脂に細かなドット。ワイシャツは明るめのブルー。
ネクタイやカッターシャツなどスーツ以外はほとんどすべて雪生からの借り物だ。
シャツや靴は雪生とサイズが違うため、中学のときに着ていたものをわざわざ家から持ってきてくれたのだ。
雪生らしくない親切な行動だったが、五、六十万(明細書によると正確には五十六万四千円だった)の借金を背負わせたのだ。さすがに良心が痛んだのかもしれない。
ちなみに、
『靴とかだけじゃなくって、スーツも昔の奴を貸してくれてもよかったんじゃないの?』
当然の疑問をぶつけたところ、
『俺のスーツは俺の体型に合わせて作ってある。身長が同じころのスーツだとしても、おまえが着たりしたら袖や裾が余ってみっともないことこの上ないぞ』
という当然といえば当然かもしれないが、少々腹立たしい答えが返ってきた。
「まあ、七五三だと思えば似合っていなくもないな」
「それなんのフォローにもなってないから」
鳴は荒んだ目つきで雪生を睨みつけた。が、春夏冬学園の生徒会長はまるで気にする様子がない。壁の時計に目を向けると、
「そろそろ迎えの時間だ。いくぞ」
鳴の目つきを完璧にスルーしてドアへ向かった。
マイペースというべきか自分勝手と言うべきか。猫のような気侭さにいい加減慣れるべきかもしれない。
「うわっ!」
鳴は思わず声を上げた。雪生がふいに立ち止まったおかげで、雪生の後頭部に思いきり鼻をぶつけてしまったからだ。
いきなり立ち止まらないでよ、と文句を言おうとしたのに言えなかった。雪生が振り返った、と思ったときには顎をつかまれ、顎をつかまれたと思ったときには唇を塞がれていたからだ。
指の先までビリっと痺れが走る。
「さあ、いくぞ」
何事もなかったかのように鳴に背を向けて部屋を出ていく。
「――――――」
わかっている。今のはいってらっしゃいのキスだ。
あれからというものおはよう、おやすみなさい、いってらっしゃい、おかえりなさいのキスは毎日毎回かかさず続いている。
最初のころはいちいちツッコんでいた鳴だったが、さすがに気力が尽きてきた。
だからといってキスが平気になったわけじゃない。それどころか回数を重ねるにつれて、心臓のざわめきが激しくなっていっている気がする。
口と口が触れただけ。大したことじゃない。
自分で自分に言い聞かせても心臓のざわつきは治まらない。
(ひょっとしてこれ、奴隷でいるかぎり続くのか……?)
奴隷でいることにあまり抵抗感のなくなってきた今日このごろだったが――
(奴隷に選ばれた理由探し、再開したほうが身のためかも……)
そう思った鳴だった。
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