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庶民のくせに生意気な 1

 その日の夜――ご馳走を食べ過ぎて胃腸薬と整腸剤を飲んで眠った夜、鳴は長い夢を見た。  夢の中の鳴は銀色の宇宙服を着こみ、星々の瞬く漆黒の空間をクラゲのように漂っていた。  手足がおぼつかず、上手く前に進めない。そもそもどちらが前なのか、どちらが上なのかもはっきりしない。  必死にわたわたともがいていると、少し離れたところに宇宙服がもうひとつ浮かんでいるのに気がついた。  雪生だ。  ヘルメットに包まれた顔が見えたわけじゃない。が、鳴にはわかった。 (おーい、おーい、雪生! 俺たち、とうとう宇宙にやってきたんだね! すごい、すごいよ!)  宇宙飛行士を目指すと決めた雪生はともかく、どうして平凡の鑑たる鳴まで宇宙にきているのか。  鳴は深く考えずに、雪生へ向かって泳ぎ出した。  が、雪生は鳴から逃げるようにして宇宙空間をなめらかに泳いでいく。 (ちょ、ちょっと待ってよ、雪生!)  上手く動かせない手足をバタつかせて、どうにか雪生の後をついていく。   宇宙服に包まれた背中に手が届きそうになった瞬間――  鳴はあたりの景色が変わったことに気がついた。  目の前に広がるのは赤茶色の乾いた大地。ぼこぼこと隆起した大地がどこまでもどこまでも続いている。地平線の上に広がるのは漆黒の宇宙だ。  いつの間にか鳴は赤茶色の大地の上に立っていた。 (ここは……火星だ!)  火星の大地を見たことがあるわけじゃなかったが、鳴は確信した。 (そっかあ! 俺たちとうとう火星に到着したんだ! 雪生、おめでとう! とうとう夢が叶ったね!)  雪生に駆け寄り、手に手を取って喜びを分かち合おう。そう思ったのだが―― (ちょ――雪生! な、なにしてんの!?)  雪生が宇宙服を脱ごうとしているのに気づき、ぎょっと目を剥く。慌てて止めようとしたが間に合わなかった。  雪生は顔をすっぽり包みこんでいるヘルメットを外してしまった。 (ゆ、雪生――じゃない……!?)  もこもこした宇宙服の中から姿を現したのは、まだ十歳にもならない少女だった。  くるっと振り返って鳴を見つめる。  黒猫を思わせる大きな瞳。少女にしては短めの黒髪。美少女としか形容しようのない整った顔立ち。  初恋の少女だ。  少女はくるりと背を向けて走り出した。 (え、あ、ちょっと待ってよ……! あれ、宇宙服着なくっても大丈夫なんだ? そっか、火星にも地球と似たような空気があるんだ)  鳴は自分自身も宇宙服を脱ぎ捨てると、全速力で少女を追いかけた。  やっと、やっと会えた。  キスしたことを謝らないと。謝って、そして、君が好きだと伝えないと。  ふと気がつくと、鳴は川の畔へやってきていた。あたりは鬱蒼とした緑に覆われ、川の音が涼し気に響き渡る。 「……火星にも川があったんだ。っていうか植物まで……」  ぱしゃんと水の跳ねる音が聞こえた。ハッとして目を向けると、Tシャツにショートパンツ姿の少女が川の中ほどに立っている。  鳴は川へ入ると、少女へゆっくり近づいた。 「あ、あの……」 「この川はおかしい」 「えっ?」 「僕はスイミングスクールに通っているんだ。それなのに上手く泳げない」  少女は拗ねた様子で唇を引き結んでいる。 「川は真水だから浮きにくいんだよ。プールと違って流れだってあるし。慣れれば上手く泳げるようになるよ。俺が教えてあげるから」  言いながらあれ、と思う。 (前にも誰かにこんなことを言ったような……)  大きな瞳で忌々しげに睨まれてドキッとする。 「庶民のくせに生意気な――」 「庶民て――」  まるで雪生みたいなことを言う。そう思った瞬間、目が覚めた。

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