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ファーストフレンド 2

「き、君! 人聞きの悪いことを叫ぶのは――」 「きゃーっ! 痴漢! 変態! 人攫いー!」 「だから、人聞きの悪いことは――ええい、もういい。君もついてこい」  腕をつかまれた、と思ったら、鳴まで後部座席に押しこんできた。さっさと運転席にもどり、車を手荒に発進させる。  鳴は遠心力で思いきり仰け反った。 「……まったくおまえの後輩はつくづく失礼だな。誰が誘拐犯だ。おまけに痴漢呼ばわりとは」 「……僕の友人が大変失礼しました」  雪生はしおらしく頭を下げたが、鳴は雪生の肩が震えているのに気づいてしまった。笑い出しそうなのを必死で堪らえているらしい。 「あ、あのー」 「なんだ」  シートベルトを締めながら月臣に声をかけると、ぶっきらぼうな返事が帰ってきた。 「俺たちいったいこれからどこにつれていかれるんですか? まさかどこかの山奥に穴を掘って埋める気じゃ……」 「君はほんとうに失礼だな。この私が犯罪を犯すような人間に見えるのか!?」  月臣は後部座席を大きく振り返った。眉間の皺が険しい。 「いや、ほら、人は見かけによらないって言いますし――って、前! 前見て運転してください! 脇見運転は道路交通法違反ですよーっ!」  赤信号が迫ってきていることに気がつき、大慌てで叫ぶ。車はキキーッと悲鳴を上げて急停車した。 「……あー、死ぬかと思った」  鳴はほーっと息をついて胸を撫で下ろした。 「……まったく君という奴は。非常識の権化だな。もう少しで信号無視をするところだったじゃないか」  月臣は冷眼を向けてきた。こういう目つきだけは兄弟だけあってそっくりだ。 「えっ!? 人のせいにしないでくださいよ。余所見したお兄さんが悪いんじゃないですか」 「君がおかしなことばかり言うからだろう。……雪生、なにがおかしいんだ」  とうとう堪えきれなくなったらしい。雪生は腹を抱きかかえながらくっくっと喉を震わせている。 「すみません。我慢してたんですけど限界です」  雪生は顔を上げた。笑い過ぎたらしく眦に涙が浮かんでいる。滅多にお目にかかれない年相応の無邪気な笑顔。写真に撮ってオークションにかけたら数万、いや数十万の高値がつきそうだ。 「……まったく。後輩の無礼が移ったんじゃないのか。友人はもっとよく選んだほうがいいぞ」  月臣はちらっと鳴を振り返って嫌味っぽく言った。 「いえ、僕にはもったいないくらいの友人ですよ」 「そうそう、雪生にはもったいないくらいの――って、ええええっ!?」  鳴は整うだけ整った顔を凝視した。尊大極まりない雪生の口からそんな慎み深い言葉が出るなんて。日本沈没の前触れかもしれない。 「なんだ文句でもあるのか?」 「……雪生が謙遜するとか気持ち悪いのを通り越して不吉なんだけど――って、いてててててて! やめて! ほっぺがちぎれる!」  いつものように容赦ない力で頬をねじり上げられて、鳴は必死に抵抗した。 「人がめずらしく誉めてやったのにずいぶんな言い草だな、鳴」 「ごめん! ごめんなさい! 俺が悪かったです!」  半泣きで謝るとようやく指が離れた。思ったことを素直に口にしただけなのにひどい仕打ちだ。  鳴はひりひり痛む頬を涙目で擦った。 「つまらない漫才はやめてくれ」  苛立ちのこもった声が運転席から聞こえた。 「くだらない人間とつき合うとおまえまでくだらない人間に成り下がるぞ。これは兄としての忠告だ」  くだらない人間とはそれこそずいぶんな言い草だ。平々凡々なのは否めないが、平凡なりに精一杯生きているのに。 「ご忠告痛み入ります、兄さん」  雪生は優美な笑みを唇に浮かべている。先日のパーティーのときとはまるで様子が違って見える。あのときは硝子細工を思わせる作り笑いで己を守っていたのに。今の雪生には目に見えない鎧をまとっているかのような余裕があった。  その余裕が気に食わなかったのか、月臣はバックミラー越しに弟の顔をながめると、 「――ふん」  忌々しそうに鼻を鳴らした。

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