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ファーストフレンド 4

「本日は『éclat』へおいでいただきましてありがとうございます」  給仕長は接客業の見本のような笑顔を浮かべながらメニューを差し出した。 「本日のシェフからのおすすめは――」 「季節のコースを三人前。飲み物は全員ペリエで」  月臣は給仕長の言葉を遮ると、渡されたばかりのメニューを突き返した。  ペリエというのはこの間のパーティーで雪生が飲んでいた炭酸水のことだろうか。申し訳ないが鳴は炭酸水などお金を払ってまで飲みたくはない。それよりも問題は―― 「あ、あの、俺は違うものにします。この店でいちばん安いものってなんですか?」 「は?」  いまだかつてない質問だったらしく、給仕長は目を白黒させた。 「おい、君」  怖い声を出したのは月臣だ。テーブルの反対側から険悪な眼差しで鳴を睨みつけてくる。 「どういう意図があってそんなことを訊ねるんだ。私に恥を掻かせるつもりか?」 「えっ、いや、コース料理なんてとても払えないから、もっと安いものにしようと思って。それに炭酸水なんて飲みたくないし……」 「ここは私が支払う。くだらない心配をして私に恥をかかせるな」  こめかみの血管がくっきり浮き上がっている。ずいぶんと怒りっぽい人だ。 「いえ、そういうわけにはいきません。俺は奢るのも奢られるのも五百円までって決めてるんです。あの、デザートはだいたいいくらくらいですか?」  鳴は給仕長に向かって訊ねた。デザートだったら千円もしないだろうと思ったのだ。が、しかし、 「デザートでしたら二千円ほどから用意してございます」 「にっ、二千円!?」  返ってきた言葉は庶民にとってあまりにも無情だった。デザートが二千円ならコース料理はその十倍はするはずだ。たった一食で諭吉が二枚も飛んでいくなんて。ブルジョアの世界は下手な怪奇現象よりも恐ろしい。 「……あー、じゃあ水だけでお願いします」 「おい、いい加減にしてくれないか? 私は私に恥をかかせるなと言ってるんだ」  月臣の表情はいよいよ険しい。眉のあいだに爪楊枝を挟めそうだ。 「そんなこと言われても……。お金もないのに食べるわけにいきませんよ。無銭飲食になっちゃうじゃないですか」 「だから、奢ってやると言ってるだろうが」 「だから、五百円以上のものは奢ってもらえないって言ってるじゃないですか」 「君もたいがいしつこいな」 「それはこっちの科白です」 「……おい、雪生。なにがおかしい」  先ほどから雪生は鳴から顔を背けて、くっくっくっと笑い声を洩らしている。笑いが堪えきれないといった様子だ。 「すみません。このごろ笑いの沸点が低くなったみたいで。……鳴」  雪生は笑いをおさめると涙の滲んだ瞳を鳴に向けた。 「兄は社会的な立場のある人だ。弟の後輩を食事につれていって、割り勘というわけにはいかないんだ。ここは兄の顔を立ててごちそうになってくれないか?」 「え、でも……よく知らない人に奢ってもらうなんて申し訳ないよ」 「水でいいなんて言われるほうがよっぽど迷惑だとわからないのか? どうしても嫌だと言うなら店から出ていってくれ」  月臣は人差し指で個室のドアを指差し、冷ややかに言い放った。  店から出てしまったら雪生が月臣から攻撃されても守ってやれない。それは困る。 「……じゃあ、ごちそうになります。あの、俺が就職したらこの借りはちゃんと返させてもらいますから」 「では、ご注文は季節のコースとペリエが三人前でよろしかったでしょうか?」  テーブルの傍らに立ち尽くしていた給仕長がにこやかな笑顔で訊いてきた。その笑顔にかすかな疲労が見受けられるのは鳴の気のせいだろうか。 「ひとつはジュースにしてもらえますか?」  雪生が言った。 「では、天然シロップのソーダ割りはいかがでしょうか。オレンジ、ストロベリー、カシスとございますが」 「鳴、どれにする?」  どうやら鳴のために訊いてくれたらしい。 「あ、じゃあ、オレンジで」  給仕長が丁寧に頭を下げてから部屋を出ていくと、奇妙な沈黙が部屋に下りた。 「……まったく、どうしてこんなおかしな人間と友人になったんだ」  月臣は忌々しげに鳴を睨んできた。ひょっとしなくても『おかしな人間』というのは鳴のことだろう。えらい言われようである。 「君がいるだけでどっと疲れる」 「はあ、なんだかすみません。あ、食事のお礼に肩でも揉みま――」 「けっこうだ」  邪険に手を振られて、鳴は浮かしかけた尻をもどした。けんもほろろとはまさにこのことだな、と思いながら。

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