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夏休みカウントダウン 3
「あとちょっとで夏休みだね」
穏やかな声で話しかけてきたのは、鳴と同じく平凡族の一員、瀬尾朝人だ。人の良さそうな顔に声と同じく穏やかな笑みを浮かべている。
ホームルーム前の教室。いつも以上ににぎやかに感じるのは、夏休みを一週間後に控えているからかもしれない。
「瀬尾君は新潟の実家に帰るんだよね」
「うん。夏休みはほとんど実家で過ごすつもり。相馬君は?」
「俺も実家に帰るつもりだよ。ここの生活はあらゆる意味で落ち着かないからさ。夏休みくらい暮らし慣れた実家でリラックスして過ごしたいなって。あ、でも、その前に生徒会長と旅行にいく――」
ピタリと言葉を止めたのは、朝人の表情がさっと一変したからだ。
「相馬君」
「わ、わかってる。……このことを他の生徒に知られたら――」
「死あるのみ……だよ」
重々しい言葉に鳴は唾を呑みこんだ。
雪生はこの学校のアイドルだ。正しく偶像という意味で。
そのアイドルとふたりで旅行にいくと知られたら、大袈裟ではなく死が待ち構えている。さすがに殺されはしないだろうが、死んだほうがマシな目に合うのは間違いない。
「脅すようなことを言ってごめんね。旅行楽しんできてね」
朝人は申し訳なさそうな表情で言った。
春夏冬へ入学してからさまざまな出会いがあったが、まともな人間は朝人ひとりだけだった。
言わば朝人は高校生活における唯一の光だった。大袈裟でもなんでもなく。
「瀬尾君もね。お互い楽しい夏休みになるといいね」
鳴は心からの感謝をこめて朝人へ微笑みかけた。
その日の夕刻、鳴は学校近くのカフェを訪れた。隣に雪生の姿はない。そのかわりにテーブルの反対側に月臣の姿があった。
『近くまできているんだが会えないか?』
というメールが届いたのは、生徒会の仕事が終わる少し前のことだった。
月臣と顔を合わせるのはあの日以来初めてだ。
一緒にいこうと雪生を誘ったのだが、あっさり断られてしまった。
「兄さんはおまえと話がしたくて誘ったんだ。俺がいたらきっと空気が重くなる。話したいことも話せないだろう。おまえひとりでいってくるといい」
ただし、と続けると鋭い眼差しで鳴を睨みつけ、
「話が終わったらすぐに帰ってこい。前回のように門限を破ってみろ。どうなるかわかってるな?」
「えっ? どうなるの?」
「おまえは生まれてきたことを心の底から後悔することになるだろう」
科白にそぐわないにこやかな笑みで宣言したのだった。
(生まれてきたことを後悔って……。いったい何するつもりなんだ)
クリームソーダに浮かんだアイスクリームをひと口食べると、冷ややかさが骨の髄まで染みたかのようにぶるっと身震いが出た。
「どうかしたのか?」
飲み物から顔を上げると、月臣は不思議そうな表情で鳴を見ていた。
「あ、いや、なんでもないです。月臣さん、お元気そうですね。相変わらずクイーンは歌ってるんですか?」
「ああ、このあいだ中途半端に時間が空いたからヒトカラという奴をやってみたんだ。あれはあれで楽しいものだな」
端正な顔立ちにはにかんだ笑みを浮かべる。
出会ったときのことを思い出すと、信じられないくらい物腰が柔らかくなった。まるで別人だ。
「月臣さんのクイーン、また聞きたいなあ。今度また一緒にカラオケにいきませんか? 月臣さんが時間のあるときに」
「ほんとうは私から君を誘うつもりだったんだ。夏休みに入ったら私に一日つき合ってもらおうと思って。鳴は夏休みも寮で過ごすのか?」
かろやかなクラシック音楽が流れる店内。
テーブルは八割ほど埋まり、客たちは会話や手元の飲み物をそれぞれ楽しんでいる。
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