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夏休みカウントダウン 4

「いや、俺は実家に帰ります。夏休みくらいはあの風変わりな環境から離れたいなーって。あ、でも実家は埼玉県さいたま市だから、すぐにこっちまで出てこられますよ」 「雪生は君が実家に帰ることを了承したのか?」  どうしてそんなことを訊くんだろう、と思いながら素直に答える。 「えーっと、特に許可はもらってないですけど……。でも、夏休みのあいだは雪生も俺の実家にくると思います。ゴールデンウィークも俺の実家で寝泊まりしてたし」  月臣は呆れた表情を浮かべたが、すぐに笑みにとってかわった。 「弟はほんとうに君が気に入ってるんだな」 「はあ……どうなんでしょうね。けっこう無茶苦茶されてますけど、友達だとは思ってくれてるみたいです」  たぶん、とつけ加えてしまうのは、日ごろの態度が態度だからだ。 「雪生ともどこかへ遊びにいくんだろう?」 「遊びってわけじゃないんですけど、夏休みが始まったら群馬の辺境にいく予定なんです。俺のじいちゃんの実家なんですけど」  鳴は幼少のころにそこで初恋の少女に出会ったかもしれない、と月臣に語った。泣き止ませたくてキスしてしまったことも。  正直に話すのは気恥ずかしかったが、開けっぴろげからほど遠い月臣も鳴には己のことを聞かせてくれたのだ。ここは恥を忍んで事実を話すべき場面だ。 「……それはまたロマンティックな話だな。初恋の少女を探して旅する、なんて。でも、雪生は嫌がったんじゃないか? 君の旅についていくのも邪魔をするためかもしれないぞ」  月臣は揶揄を含んだ微笑を浮かべている。鳴は首を傾げた。 「邪魔?」 「もしも鳴が初恋の少女と再会して恋人同士になったら、鳴と過ごす時間はどうしたって減ってしまうだろう。いくら友人といっても恋人には敵わないからな。それはあいつには面白くないはずだ」 「いや、そんな――」  否定しかけて、翼と友人になった際の態度を思い出した。  あのときの雪生は盛大に焼きもちを妬いていた。それをズバッと指摘したためとんでもない目にあったことも、ついでに思い出してしまった。 「どうしたんだ? 顔が赤いぞ」 「い、いや、なんでも……。でも、それはないですよ。なんか雪生って俺以上に俺の初恋の子を探し出したがってるし。思い出せ思い出せっていっつも発破をかけてくるんですよ」  月臣はおや、という表情になった。 「雪生が鳴の初恋の相手を探し出したがっている?」 「はい。まあ、それをネタに俺をからかって遊ぶつもりなんでしょーけど」 「……鳴、初恋の少女について覚えていることを教えてもらえるか?」  なんだってこの兄弟は鳴の初恋の相手をやたらと気にするのか。疑問に抱きながらも、隠すことでもないので正直に話して聞かせた。 「出会いの場所は群馬の山奥。鳴が幼稚園か小学校低学年のころのことで、黒猫みたいな美少女……。泳ぎを教えようとしたら『庶民のくせに生意気な』って言われた、ね……」  なぜか月臣は顎に指を添えて難しい顔をしている。 「庶民のくせに、っていうのは思い出したっていうか夢で見ただけなんで。ほんとにあったかどうかはわからないんですけど」 「いや、きっと実際に言われたんだよ。小生意気な美少女がいかにも言いそうな科白じゃないか?」  難しそうな表情が解けた、と思ったら、今度はやけに楽しげな笑みを浮かべる。  今日の月臣はいまいち不可解だ。 「そうですかあ? 庶民なんて言葉ふつうあんまり出てこないような……。それもたぶん七、八歳の子供ですよ」 「きっと深窓の令嬢だったんだろう」  月臣は思い出したようにコーヒーのカップを手に取った。 「鳴、君が初恋の相手と出会えることを祈ってるよ。楽しい夏休みになることも」  端正な顔に広がった笑みは非常に魅力的なものだったが、鳴はなぜだか妙に落ち着かない気持ちになったのだった。

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