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夏休みカウントダウン 5
夏休みまであと三日を切った日のことだった。
授業を終えた鳴が雪生と共に生徒会室へ入っていくと、翼が椅子から立ち上がって近づいてきた。
「鳴、これ……」
白い封筒がすっと差し出される。
「こんにちは……えええーっと、つ、つ、つ――ばさ」
翼と呼べと言われたのでがんばって呼び捨てしているのだが、どうにもこうにも呼びにくい。友情に免じてさんか先輩をつけることを許して欲しい。
「えええーっと、こ、これなんですか?」
「ライブのチケットだ。八月末に原宿のライブハウスでやる……。鳴にきて欲しい」
滅多なことでは動かない表情筋をわずかに動かし、ほのかな笑みを浮かべてみせる。その表情に胸がきゅんと仔犬のような鳴き声を上げた。
「えっ、もらっちゃっていいんですか?」
乙丸翼がボーカル兼ギタリストを担当するバンドのライブチケットだ。春夏冬での人気を考えたら、恐らくプラチナチケットのはずだ。
パンクロックに詳しくない自分がもらってしまっていいんだろうか。
「あっ、チケット代払います。いくらですか?」
「金はいらない。聴きにきてくれればそれでいい……」
鳴は封筒を恭しく受け取った。
「おい、乙丸。勝手に俺の奴隷を誘わないでもらいたいな。奴隷の監督義務者はキングだ。相馬鳴がライブハウスで奇行を振る舞えば、その尻ぬぐいはこの俺がすることになるんだぞ」
ずいっ、とふたりのあいだに割って入ったのは生徒会長の桜雪生だ。
そうだった。雪生には意外と心が狭いというか嫉妬深い一面があったんだった。
ていうか、奇行ってなんだ奇行って。
「桜のチケットも入ってる……」
雪生の狭量な態度を気にしたようすもない。翼はいつも通りの淡々とした口調で言った。
「相馬君ひとりでいかせるような真似を桜がするはずないからね。相馬君をライブに誘うなら、桜のぶんもチケットを用意したほうがいいって、俺がアドバイスしたんだよ」
横から口を挟んだのは、生徒会の爽やか担当と見せかけたドS担当の一ノ瀬太陽だ。
「いいじゃないか。ライブくらい奴隷ひとりでいかせたら。モッシュに呑みこまれて行方不明になれば幸いというものだ」
すかさず遊理が毒を吐き出す。
モッシュというのが何かはわからなかったが、行方不明者が出るような物騒なものらしい。
いったいどんなライブなんだ、と思ったが、パンクロックなら多少の事件性があってもおかしくないかもしれない。なにせロックンロールを更に過激にしたのがパンクロックだ。
「せっかくゆき――じゃなくって生徒会長のぶんもくれたんだからさ。一緒に聴きにいこうよ。生徒会長だってキング仲間の演奏に興味がないけじゃないでしょ?」
鳴がチケットの入った封筒を片手に言うと、雪生は眉間を寄せながらも「まあな」と呟いた。
「生徒会長として生徒会役員の晴れ舞台を見にいくのはやぶさかじゃない。それにライブハウスというものにも興味がある。オペラハウスならよく知っているが、ライブハウスは未知の領域だ」
「ライブハウスなんて桜に似つかわしい場所じゃないよ。まともな客席だってないんだ。前後左右の客と身体がぶつかったり、それだけならともかく混雑に乗じた痴漢行為だってあるかもしれない。君のせいで桜がハレンチな目にあったらどうするつもりだ」
遊理の最後の言葉は鳴に向けられたものだった。まるで鳴がその痴漢野郎であるかのように、憤怒と嫌悪の入り混じった瞳で睨みつけてくる。
「どうするって言われましても……」
雪生が痴漢にあったとしてもそれは鳴のせいではないし、雪生のことだから痴漢行為を受けたりしたら相手の腕の二、三本は軽く折ってしまうだろう。
「君のせいで僕の――もとい全生徒の崇拝の対象である桜雪生が汚されるんだ。その責任を君の命ひとつで贖えるとでも?」
「いや、そんな大袈裟な」
雪生はキング、鳴は奴隷。ヒエラルキーの天辺と底辺に属するふたりではあるが、いくらなんでもこの命が雪生の尻以下ということはないはずだ。
「大袈裟? いったいどこが大袈裟だって――」
「如月、心配してくれるのはありがたいが、俺は自分の身くらい守れる」
雪生に穏やかな微笑を向けられて、遊理は口を噤んだ。が、またすぐに開き、
「もちろん桜の実力はよく知ってるよ。僕は下賤な輩のいる場所へわざわざ足を運ぶ必要はないんじゃないか、って言いたいんだ」
遊理の目が鳴をちらりと見た。下賤な輩ならここにいる奴隷ひとりでじゅうぶんだ、と言いたいんだろう。
「君も君だ。奴隷の分際でありながら主人を気安く誘うなんて。もっと立場を弁えるべきだ」
冷眼を突きつけられて肩を竦める。
雪生とふたり旅をすると知ったら、憤怒のあまり頭髪を根こそぎ毟られるかもしれない。
(如月先輩にだけは知られないようにしないと……)
頭頂部を手で抑えながら心に固く誓う鳴だった。
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