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史上最悪の恋 3

「この川で初恋の子と遊んだのか?」 「うーん、たぶん」  ここを訪れるのが初めてじゃないのは確かなはずだ。うっすらとだけどこの景色に見覚えがある。 「たぶん? どうにも頼りないな」  雪生は呆れた口振りで言いながら、ざぶざぶと川へ入っていった。  雪生の格好は今日も今日とて上から下まで黒づくめだ。ラッシュガードを羽織っているのは鳴にとっての幸いだ。雪生の肌を見せつけられたら平静でいられる自信がない。 「しょうがないだろ。かれこれ十年くらい昔の話――」  文句を言い終える前にハッとする。  鳴は川の中に立つ雪生をまじまじと見つめた。  光沢のある真っ黒い髪。猫科の動物めいた大きな瞳。水着から伸びている太陽を知らないかのように白い脚。 (知ってる。俺、今とおんなじ光景を見たことがある)  もちろんそのときそこに立っていたのは雪生じゃない。川の中に立っていたのは幼く小さな少女だ。  でも、似てる。  昨日も思ったけど、あの子が実は雪生の妹だったとしても驚かない。 「あのー、雪生さん。ちょっとお伺いしたいことがあるんですけど……」 「なんだ、気持ち悪いな。金なら無利息で貸してやるから言ってみろ」 「これ以上、借金なんて重ねるわけないでしょ。そうじゃなくて、雪生のお父さんに隠し子とかいたりしないかなーって」 「俺の家庭が崩壊するようなことをあっさり訊くな、おまえは」  雪生はははっと声を立てて笑った。 「俺の父親は愛妻家で有名な人だ。隠し子がいるだなんて考えられないな」  まあ、いくら金持ちとはいえ隠し子なんて早々いるものじゃないだろう。愛人ならまだしも。 「どうしていきなりそんなことを言い出したんだ?」  不躾な質問だったにも関わらず、雪生は妙に楽しげな顔つきだ。 「いや、ちょっと……」  ひょっとして初恋の子は雪生の妹なんじゃないかと思った、と正直に言うわけにはいかない。  そんなことを話そうものなら、雪生と初恋の子が似ていることがバレてしまう。聡い雪生のことだから、芋づる式に鳴の想いに気づかれないともかぎらない。 「ここじゃ浅くて泳げそうにないな。もう少し下流までいってみるか」  鳴が口ごもっていると、雪生はあっさり話題を変えた。 「あ、そ、そうだね」  川の深さはふくらはぎほどで、これでは子供でも泳げそうにない。 (あの日の夢――火星の川で初恋の子と出会った夢。あれがただの夢じゃなくって、遠い昔の記憶なら、俺はあの子とこの川を泳いだはず)  ざぶざぶと水しぶきを上げながら清流を歩いていく。  真夏とはいえ川の水はずいぶん冷たい。照りつける太陽の熱を足元から奪われていくようで気持ちがいい。  鳴は前を歩いている雪生の背中に目を向けた。 (……ひょっとして俺ってものすごーい面食いなのかな。初恋の相手は超美少女で、いま恋してるのは超美形って。己の顔面偏差値省みずに我ながら図々しいとしか。……でも、初恋の子はともかく雪生は顔で好きになったわけじゃないし)  はっきり言って男の顔なんて整っていようが崩れていようがどうでもいい。  鳴が雪生に惹かれたのは、偶に見せてくれる素の笑顔や、子供のころからの夢を大切に抱え続けているところや、意外なくらい純粋な一面を知ってしまったからだ。  雪生への感情がいつから恋に変わったのか。振り返ってみてもよくわからない。  気がついたときには恋だった。

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