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史上最悪の恋 5

 一時間ばかり川で泳ぐと、胃袋がきゅうと鳴いて空腹を訴えてきた。 「雪生、そろそろお腹空かない? 家にもどってお昼ごはんを食べようよ」  鳴が声をかけると、雪生は泳ぐのをやめて立ち上がった。 「そうだな。これ以上ここで泳いでいても、おまえももう初恋の相手について思い出しそうにないしな」  初恋の子の手がかりを求めて川までやってきたわけだが、けっきょくあの日の夢が過去の想い出だったとわかっただけだった。  鳴を庶民と腐したことからすると、あの子はどこかのお嬢様なのかもしれない。そのお嬢様がなぜ鳴の祖父の家へ遊びにきたのか。祖父はなぜ「黒猫みたいな美少女」を知らないと言ったのか。祖父とあの子の関係はいったいなんなのか。  逆にわけのわからないことが増えてしまった。  ふたりは持ってきたバスタオルで身体をざっと拭くと、さっき下った獣道を今度は上っていった。  頭上を見上げると白い太陽が天辺で輝いている。そろそろ正午のようだ。  道の片側は雑木林、もう片側は青々とした田圃がどこまでも続いている。のどかな光景――なのに、鳴はひどく落ちつかない気持ちだった。  だって、好きな子が隣を歩いているのだ。  男だけど、俺様何様キング様だけど、常識の一片も持ち合わせていないけど、好きな子なのだ。  鳴は雪生の横顔にちらっと目を向けた。  雪生は濡れた前髪を無造作に掻き上げて、ラフなオールバックにしている。まだ濡れた黒髪やいつにない髪型にドキッとしてしまい、慌てて目を逸らす。 (こんなことでいちいち動揺してどうするんだよ。雪生とはこれからもずっと一緒にいるのに)  冷静に冷静に、と己に言い聞かせて先ほど思ったことをふたたび思う。 (……これからも雪生と一緒にいていいのかな。さも友達ですって顔をして隣にいるなんて卑怯じゃないのかな)  男なら男らしく正々堂々と気持ちを伝えるべきじゃないのか。その上で雪生の判断を仰ぐべきじゃないのか。 (俺の気持ちを知っても友達でいてくれるかな……?)  鳴の気持ちを知ったら雪生がどう出るのか。まったく見当がつかない。  見た目によらず豪胆なところがあるから気にせず友達でいてくれそうな気もするし、汚らわしいと一蹴して二度と近寄らせてくれない気もする。  隣を歩く雪生をふたたびちらりとながめる。  端正な横顔はどことなく楽しげで、今にも鼻歌が聞こえてきそうだ。  この旅を純粋に楽しんでいる雪生が羨ましい。  初恋の子を探す旅のはずが、雪生への恋心を自覚する旅になるだなんて、電車に揺られているときは思いもしなかった。  家に着いたふたりは着替えを済ませると台所へ向かった。昼食は自分たちで適当に食べると野田夫妻に伝えてある。 「あー、お腹空いたー! 泳いだ後ってやたらとお腹が空くよね」 「水泳は全身運動だからな。怠惰なおまえを引き締めるにはうってつけだな」 「いつも俺をこき使ってる人に怠惰とか言われたくないよ」  炊飯器を開けると、朝の残りがまだたくさん入っていた。 「ごはんが残ってるからおにぎり作るよ。雪生、いくつ食べる?」 「三つでいい」 「塩むすびでいいよね。人んちの冷蔵庫あんまり漁りたくないし」  塩の瓶と大きな丼を用意して、そこへごはんをたんまりと盛る。  古い民家を改築しただけあって、台所は古めかしいが同時にモダンな造りになっている。  うっすらと懐かしさを感じるのは、元の造りを活かして改築したからだろう。 「ほんとは炊きたてごはんがいいんだけどね。人様の家で贅沢は言えないからさ」  まずしっかり手を洗い、それから手の平に塩をまぶす。  ひとつ握り終わると、雪生はさっそく手に取った。 「あ、ちょ、行儀悪いよ!」  鳴の小言をスルーしておにぎりをひと口噛じる。その瞬間、雪生の表情が柔らかく綻んだ。 「美味いな」  あれ、と思った。  今と同じ光景をどこかで見たような――  ああ、そうだ。雪生が鳴の実家へ遊びにきたときだ。 (唐揚げのおにぎりを作ったとき――……ちがう、そうじゃない。あのときも感じたんだ。今とおんなじ懐かしさを)  心臓がざわっとした。なんだかとても悪いことが起こりそうな予感がする。  どうしてそう感じるのかはまったくわからなかったが。 「どうかしたのか、鳴」  鳴が固まったままでいると、雪生は怪訝そうな視線を向けてきた。 「あ、ううん、なんでもない」  鳴は笑顔を取り繕うと、残りのおにぎりを握っていった。

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