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ファーストラブ 1
次の日、鳴はすっきりした気分で目を覚ました。
布団の上で上半身を起こして、うんと伸びをする。隣に目を向けると、朝の早い雪生にしてはめずらしくまだ眠っているようだった。
雨戸の透き間から白い光が射している。どうやら今日も快晴らしい。
「よし、今日も一日がんばるぞ!」
昨日までの暗澹とした感情は一片残さず消え去った。
今となってはなにを悩んでいたのかと馬鹿馬鹿しくなるくらいだ。
子供のころの鳴は初恋の少女の気を惹くために一生懸命がんばっていた。子供だった自分にできて今の自分にできないはずがない。
いくら努力したところで雪生が鳴を好きになる可能性はコンマゼロ以下だ。
でも、ゼロじゃない。
雪生は外面こそいいが、滅多なことでは他人に打ち解けたりしない。その雪生が鳴を友人だと認めているのだ。これは大きなアドバンテージと考えていいはずだ。
それに好きな人はいるみたいだが、雪生の反応を見るかぎりあまり上手くいっていないようだ。
鳴がいいところを見せたら、少しはつけこめるかもしれない。
(努力もしないうちから諦めるなんて情けないよな。やれるだけのことはやって、その後のことはそれから考えればいいんだ)
「あ、そうだ。スマホ、スマホっと」
スマートフォンをオンにすると、アプリの通知がいくつかきていた。が、鳴が昨日からずっと待っている祖父からの返信は届いていなかった。
昨日のこと、鳴は祖父の史高にメッセージを送った。
GWのときに黒猫みたいな女の子の話したの覚えてる?
俺が子供のころ出会ったらしい美少女の話。
じいちゃんは心当たりがないって言ってたけど、じいちゃんの実家で会ったことを思い出したんだよ。
たぶんじいちゃんの知り合いのお孫さんかなにかだと思うんだ。
じいちゃん覚えてない?
ていうか思い出してよ。
いつもならその日のうちに返信があるのに、朝になっても既読スルーのままだ。
鳴は眉を緩く寄せてスマホを見つめた。
なんだか変な感じだ。
あの祖父が友人の孫を実家へ招いたことを忘れるとは思えない。そういえばあのとき祖父はニヤニヤと妙な笑みを浮かべていた。
(ひょっとしてじいちゃんは覚えていたのに知らない振りをしたのかも……。でも、なんのために?)
鳴が首を傾げたときだった。
雪生が身じろぎする気配を感じて、視線を隣の布団へ向ける。
「……もう起きてたのか」
眠そうな顔を見せたのはほんの一瞬。すぐにいつもの澄ました顔にもどってしまった。
「雪生、おはよう」
できるかぎり明るく爽やかな笑顔を心がける。努力は小さなことからコツコツと、だ。
「昨日とうってかわってすっきりした顔をしているな。昨日はゾンビみたいなひどい顔だったぞ。あれからぐっすり眠れたみたいだな」
冷ややかなまでに整った顔が柔らかく緩む。
他人には滅多に見せることのない表情。目にした途端、胸がぎゅうっと締めつけられた。
(ああもう好きぃ!)
思わず叫びそうになり、顔をさっと背ける。
これ以上見つめていたらほんとうに叫んでしまうかもしれない。
「どうかしたのか?」
「えっ、い、いや、なんでもないよ。さあ、今日もはりきっていきましょー! エイエイオー!」
鳴は布団の上に立ち上がると、元気いっぱいに拳を突き上げた。
「なんだその無駄な元気は」
「あ、雪生に訊きたいことがあるんだけど」
「訊きたいこと?」
鳴は雪生の前にすとんと腰を下ろした。
「雪生の理想のタイプってどんな人なのかなーって」
雪生のタイプに近づけるかどうかはともかく、訊いておいて損はないはずだ。
雪生は怪訝そうな表情で鳴を見つめてきた。
「どうしていきなりそんなことを訊くんだ」
「え、いや、そういえば雪生と恋愛の話って全然したことがないなーって思って。ほら、夏って恋の季節でしょ。夏には夏らしいことをしないとさ」
「かき氷じゃあるまいし、季節でするようなものなのか?」
雪生は反論しながらも、
「……そうだな、理知的で芸術に造詣が深く、常識と良識を兼ね備えた気品のある人が理想だったんだけどな」
溜息交じりに答えてくれた。
ふいに表情が翳ったのはなぜなのか。
「過去形ってことは今はちがうんだ?」
「理想は変わっていない。ただ理想はあくまで理想だ。現実はもっとシビアにできている」
つまり好きな相手は理想からほど遠いタイプということか。
だったら鳴にも望みはありそうだ。
「それで今日はどうするんだ」
「そうだなあ……近所をぶらっと散歩してみようか。きっと子供のころも家や川だけじゃなくって、このあたりをあちこち遊びまわったと思うんだよね」
祖父からの返信を待つのが手っ取り早い気もするが、いつ返信が返ってくるのかわかったものじゃない。
それにせっかく雪生と旅行にきているのだ。家にこもっていてはもったいない。
ふたりは着替えを済ませると、あてがわれた部屋を後にした。
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