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エピローグ 2
鳴がゆきちゃんの手の感触を思い出しながら手の平を見つめていると、ふいに柱時計が鳴った。
重々しい鐘の音が無人の和室に響き渡る。
「ひゃっ!」
鳴はぴょんと飛び上がると、慌てて居間から逃げ出した。昼間といえどもひとりで聞いていたい音ではない。
風鈴の音に誘われるように縁側へ向かう。
「あっ、ゆきちゃん」
庭に面した廊下の角を曲がると、縁側に腰を下ろしているゆきちゃんの姿があった。
鳴へちらりと視線を向けたが、またすぐに前を向いてしまう。
庭には近所の人が育てているらしい朝顔が蔓を伸ばし、その隣には向日葵が咲いている。夏の花の上へ蟬の鳴き声と強い陽射しが降りそそいでいる。
鳴はゆきちゃんの隣に腰を下ろした。
「ね、ゆきちゃん。川で遊ばない? それとも杉原さんちのヤギを見にいく? それとも家の中でかけっこする?」
返事はない。
ゆきちゃんを怒らせるような真似をしたかな、と少しドキドキしながら横顔をのぞきこむ。ゆきちゃんの表情は固い。まるでどこか痛いのを我慢しているみたいな顔つきだ。
「ゆきちゃん、どこか痛いの? じいちゃんにお薬もらってこようか」
「……どこも痛くない」
「でも」
なんだか今にも泣き出しそうに見える。
「今日で鳴とはもう最後だ。二度と会えない」
ゆきちゃんは朝顔を睨むように見つめながら言った。
「僕、ゆきちゃんに会いにいくよ。お父さんたちに東京につれていってもらうから、そしたらまた会えるよ」
「東京にきたって会えない。……僕は明後日アメリカに渡る。大学を卒業するまで日本には帰ってこない」
「え――」
アメリカ。それがどんなところなのか鳴はよく知らない。知っているのは遠い遠い外国だということくらいだ。
「だからもう二度と会えないんだ」
ゆきちゃんは鳴に向き直ると、きつい眼差しで睨みつけてきた。
鳴はぎょっとした。瞳にぶわっと涙がこみ上げてきたかと思うと、大きな瞳から透明の滴がぽろぽろと零れ落ちたからだ。
どうしようどうしようどうしよう。
ゆきちゃんが泣いている。どうにかして涙を止めなくちゃ。
どうすれば涙を止められる?
そうだ、びっくりさせれば涙も引っこむはずだ。
鳴は衝動に突き動かされるままにゆきちゃんの唇に唇を押しつけた。
半ばパニックになっての行動だったが、キスしてしまったことでますますパニックがひどくなった。
(キ、キ、キスしちゃった……! 結婚してないのにキスしちゃうなんて)
とんでもないことをしてしまった。おまわりさんに捕まったらどうしよう。
鳴が己の行動にアワアワしているのを、ゆきちゃんはきょとんとした表情で見つめていた。
瞬きした弾みに残っていた涙が眦から零れ落ちる。
「あ、あ、あのさ! ぼ、ぼ、僕、大人になったらアメリカにいくよ! そ、そしたらまた一緒に遊ぼうよ!」
「大人になったら? いくつになったらアメリカにくるつもりなんだ」
「え、えっと……にじゅっさい、かな?」
祖父の史高は「二十歳になったら酒が飲める」と言っていた。ということは二十歳なったら大人だということだ。大人ならアメリカにだって北極にだっていけるはずだ。
「……二十歳だって?」
ゆきちゃんは涙を手の甲で拭うと、呆れたように呟いた。
「そんなに待てるか。だいたいそのころには僕はもう日本にもどってきている。……もういい。おまえには期待しない。アメリカに渡ったらたくさん勉強して、さっさと大学を卒業する。卒業したらまた日本にもどってくるから」
それまでちゃんと僕を覚えていろよ。
ゆきちゃんは鳴の肩をつかむと、さっき鳴がしたように唇を押しつけてきた。
「ゆ、ゆきちゃん……!?」
鳴は腰を抜かしそうなほどぎょっとした。キスしただけではなくキスされてしまった。大人の階段を一気に百段くらい駆け上ってしまった気分だ。
ゆきちゃんは仰天している鳴を見下ろしてふふんと笑った。得意げな笑顔が可愛くて胸のあたりがきゅっと締めつけられる。
「さっさと立て。出かけるぞ」
「で、出かけるってどこに?」
「ヤギを見にいって、それから川へいこう。あと三時間もしたら迎えがやってくる。それまで目一杯遊ぶぞ」
「――うん!」
鳴はパッと笑顔になると、ゆきちゃんに続いて駆け出した。
宝石のように輝いていた一週間。その中でも最後の一日は特大のダイアモンドだった。
この日のことを綺麗さっぱり忘れてしまうだなんて、このときの鳴が知るはずもなかった。
そして九年後――
「相馬鳴、今日からおまえは俺の奴隷だ」
最悪の再会を果たすことも、もちろん知るはずがなかったのだった。
平凡君の非凡な日常 終わり
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