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ラムネ瓶と子供のらくがき 1

お好み焼きで勝負をすることになった鳴と雪生。果たして勝負の行方は?  ◇ ◇ ◇  相馬鳴は主観的にも客観的にも平凡な少年である。  平凡であることをコンプレックスに思ったことは、一度としてない。これまでの十六年間、平凡なりに楽しく幸せに生きてきた。これ以上なにを望むというのか。  他に望むものといえば『彼女』という存在だけだった。いまとなってはそれももう望まない。 『彼女』はいまだできていないが『彼氏』という存在ができたからだ。  平凡をコンプレックスに思ったことはないものの、偶には人に勝ちたいと思うこともある。  鳴の勝ちたい相手。それは鳴のルームメイトであり、奴隷として仕えるご主人様であり、恋人でもある少年――桜雪生だ。  平凡少年の鳴が雪生に勝つのは至難の業だ。なにしろ鳴の恋人は、平凡という言葉からもっとも遠い存在だ。  まず顔がいい。顔立ちが整うだけ整った美形オブ美形だ。  次に頭がいい。十五歳でアメリカの難関大学を卒業したというのだから、天才オブ天才。天才オブザイヤーな天才だ。  その上、運動神経がいい。弓道と乗馬をこなし、球技大会では先輩がたを押しのけてクラスを優勝へ導いたと聞いている。おまけに元SWATの軍人に護身術を教えてもらったとかなんとか。  そんな雪生に鳴が勝てる場面はほとんどない。  勝てるとすれば利き酒ならぬ利きうまい棒だとか、おにぎりの早食い競争だとか、そんなところだ。雪生がそんな勝負に乗ってくれるはずもなく、鳴が雪生に勝つことは事実上不可能だった。  いつも負けっぱなしだからこそ、偶には勝ってみたい。雪生と対等であるためにも。  心の片隅でずっとそう思い続けているのだが、望みはいまだ叶わぬままだ。  いや、でも、これならいける。  鳴は店の看板を見上げて、拳をぐっと握りしめた。 「雪生、お昼ごはんはここにしない?」  鳴が声をかけると、雪生は足を止めて店を振り返った。  週末の雑踏。雪生が東京都美術館でやっている近代美術展を見たいというので、ふたりで出かけた、その帰り道のことだった。 「お好み焼き屋たろちゃん?」  看板を見上げて呟く。  時刻は午後一時。店先には粉モンの焼ける芳ばしい香りが漂い、鳴の食欲中枢を思いきり刺激する。 「お好み焼きか。未知の食べ物だな」 「あ、雪生、やっぱりお好み焼きを食べたことない?」  なにせ雪生は真正のお坊ちゃまだ。粉モンの類を口にしたことがなくても不思議はない。 「食べたことはないが、テレビで見たことはある。丸くて上にかつお節のかかった物体だろ」  思ったとおりだ。食べたことがないなら、焼いた経験があるはずもない。  これなら勝てる――! 「お好み焼き屋ってテーブルが鉄板になっていて、自分たちで焼いて食べるんだよ」 「客に調理させるのか? ずいぶんと怠惰な飲食店だな」 「自分で焼くのが楽しいんだよ。ひょっとして上手く焼ける自信がないとかー?」  鳴はにやにや笑いながら、わざと挑発的な言葉を口にした。  プライドの高い雪生のことだから、少しでも見下されるのは我慢ならないに違いない。 「誰がいつ自信がないと言った? この俺を誰だと思っているんだ。お好み焼きくらい経験がなくても、上手く焼いてみせる」  案の定、ムッとした表情でそう言ってきた。  頭がいい割に単純なところがあるよなあ。  雪生に知られたら両頬を引きちぎられそうな感想を、こっそり抱く。 「じゃあさ、どっちがお好み焼きを上手に焼けるか勝負しようよ。ジャッジはお店の人にしてもらって」 「わかった。その勝負受けて立ってやろう」  鳴と雪生の視線がぶつかり、火花が散った。  セレブだからっていつもいつも庶民に勝てるわけじゃないということを、今日こそ思い知らせてやる。  鳴は不敵に微笑むと、店の引き戸を開けた。 「すみませーん、ふたりなんですけど」  引き戸を開けると、店先に漂っていた芳ばしい香りがますます色濃くなる腹の虫が刺激されて、ぐーっと盛大な鳴き声を上げた。 「いらっしゃい! お座敷席が空いてますよ」  店はほぼ満席だった。  三和土の上にテーブルがいくつか並び、左手がお座敷になっている。  鳴と雪生はひとつだけ空いていたお座敷席へ腰を下ろした。  店へ入ったときから、他の客たちの視線は鳴たちに、いや、雪生に釘づけだ。  庶民的なお好み焼き屋の中、雪生の美貌は浮きに浮きまくっている。  鳴だったら視線の束に逃げ出すところだが、雪生に動じる気配はない。いつでもどこでも人にじろじろ見られるため、人の視線にはとことん鈍感になっているようだ。  雪生はラミネート加工されたメニューをさっそく手に取った。 「なるほど、お好み焼きは中に豚肉やイカや餅やチーズを入れて焼くのか。いったいベースはなんなんだ」 「小麦粉だよ。小麦粉を出汁で溶いたものに、キャベツを入れたものがベースなの」 「じゃあ、俺はこの海鮮デラックスにする」  雪生が指差したのは、お好み焼きの中でもっとも値段の高いものだった。  このブルジョワめ、と心で毒づく。  いや、でも、具材が多ければ多いほど、お好み焼きの難易度は上がる。  お好み焼き初心者の分際でデラックスに手を出したことを後悔するがいい。

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