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ラムネ瓶と子供のらくがき 2

「俺はスタンダードに豚玉にしよーっと。あとラムネ。こういうお店に入ると、なんかラムネが飲みたくなるんだよね」 「じゃあ、俺もラムネにしよう。……懐かしいな」  雪生の目許に笑みが滲んだ。  九年前の夏、ふたりは祖父の実家で夏休みの一週間をともに過ごした。  短いけれど濃密だった一週間。  そうだ、家の近くにあった駄菓子屋に雪生をつれていったんだった。  残念なことにその駄菓子屋は閉店したらしく、この夏もう一度訪れることは叶わなかった。 (なんだ、その飲み物は。どうして中にビー玉が入ってるんだ)  色褪せた思い出がふつりと浮かび上がる。  鳴の買ったラムネを不思議そうに見つめていた幼い雪生。  あのころの雪生は可愛かった。なにしろずっと女の子だと勘違いしていたくらいだ。 (ラムネの瓶にはビー玉が入ってるんだよ) (だから、なんのためにだ。理由がわからない) (え、えーっと……なんか嬉しいから?)  そういえばどうしてラムネ瓶にはビー玉が入っているんだろう。九年前の謎はいまだ謎のままだ。 「雪生、どうしてラムネの瓶にはビー玉が入ってるの?」  いまの雪生ならきっと知っているはずだ。  雪生はメニューから顔を上げると、 「なんか嬉しいから、だろ」  悪戯っぽく微笑んだ。  鳴の前でしか見せない子供じみた笑顔に、心臓がきゅんと鳴く。  ささやかなやりとりをちゃんと覚えていてくれたのか。  こういうところずるいよなあ……。  俺様だし我が侭だし、頭がいいくせに常識に激しく欠けるし、人の頬を常に引きちぎらんとしてくるし。なかなか最悪な人だと思うのに、ちょっとした言動で『おまえが好きだ』と伝えてくるからたちが悪い。 「……雪生って」  雪生の顔をじとっと見つめる。 「俺がどうかしたのか」 「いや、ときどき変に可愛くなるよね」 「安心しろ。おまえはいつでも可愛いぞ」  しれっと返ってきた言葉に、心臓がふたたびきゅんと鳴いた。  いやいや、いまは甘い科白にときめいている場合ではない。  鳴は慌てて周囲を見回した。雪生をちらちらと、あるいはじっと見つめている客は少なくないが、鳴を注視している客はひとりもいない。どうやらいまの会話は聞かれなかったようだ。  聞かれていたら、 『このゾウリムシのどこが可愛いって?』  と言わんばかりの不審そうな目が向けられているはずだ。  ほっと息を吐くと、向かいの席の雪生を睨みつける。 「ちょっと、雪生! 外でそういうこと言わないでくれる」 「先に言ったのはおまえだろ」  確かにそのとおりのため、鳴は押し黙るしかなかった。  注文を済ませると、先にラムネがやってきた。ついている栓でぐっと押すと、ビー玉が中へ落ちる。それと同時に泡が吹きこぼれて、鳴は急いで口をつけた。  甘くて酸っぱい夏の味が舌から喉へ広がっていく。  雪生もビー玉を落とすと、ラムネ瓶を口へ運んだ。  庶民的なお好み焼き屋でラムネを飲んでいる。それだけなのにやけに様になっている。まるで映画のワンシーンだ。 「昔はラムネに栓がなかったらしい」 「え?」 「ビー玉を栓のかわりにしていたそうだ。だから、ラムネ瓶にはビー玉が入っているんだ」  ラムネ瓶にビー玉が入っているほんとうの理由をちゃんと知っていたらしい。 「雪生っていろんな雑学を知ってるよね。そのうちクイズ番組からオファーがくるんじゃない」  十五歳でアメリカの大学を卒業した天才少年というだけでもアピール力がすごいのに、このルックスである。視聴者の目と心を惹きつけるのにじゅうぶんのはずだ。 「雪生なら東大のクイズ王だって目じゃないでしょ。そのうちクイズ王子とか呼ばれるようになったりして」 「くだらないことを言っていないで、おまえはもう少し芸術的センスを磨け。美術館でのおまえの感想はひどかったぞ。隣にいるのが恥ずかしかったくらいだ」  雪生はラムネの瓶を片手に、鉄板の熱気も凍てつきそうな冷ややかなまなざしを向けてきた。 「確かに俺は芸術とかよくわかんないけどさ。そんな変なことを言ったつもりはないんだけど……」 「おまえは、印象派の絵に向かって『わー、すごく巧い絵だね』、抽象画に向かって『なんか子供のらくがきみたいだね。これなら俺にも描けそう』などと言ったんだぞ。画家の絵が巧いのは当たり前だし、抽象画には子供には到底理解できないテーマがこめられているんだ。それをらくがき扱いとはな」  鳴はうっと口ごもった。  感想が率直すぎただろうか。芸術に縁のない庶民には、あれが精いっぱいの感想なのだが。  鳴が肩を小さくしていると、注文の品が運ばれてきた。  銀色のカップに入っているのは出汁と卵で溶いた小麦粉、それにあらみじん切りにしたキャベツ。別の皿には豚肉やエビ、イカ、ホタテなどの海鮮がのっている。 「俺は芸術的センスはないかもしれないけどさ、お好み焼きを焼くセンスは雪生に負けない自信があるからね」  鳴はヘラを手に取ると、口の両端をつり上げてにやっと笑った。  今日こそは雪生に勝ってみせる。これはもはや鳴と雪生、ふたりの戦いではない。セレブと庶民を代表しての代理戦争だ。 「料理には芸術的センスが必要だ。美しく盛られていない料理は、いくら美味しくても味が半減する。カンディンスキーの絵を見て『子供のらくがき』としか思えないおまえに勝ち目はない」  雪生もヘラを握ると、整うだけ整った顔に不敵な笑みを浮かべた。  ふたりの視線が真っ向からぶつかる。 「雪生、いざ勝負――!」 「じゃあ、いまから焼きますねー。あ、お客さん、危ないから鉄板に身を乗り出さないでくださいね」  注文を運んできた大学生らしき店員は、鉄板にお好み焼きのタネを流しこむと、手際よく形を整えた。  鉄板がじゅわわーっと耳に美味しい音を立てる。 「えっ、あ、あの、これってどういう……」 「どうかしましたか?」  店員は不思議そうな顔で鳴を見つめている。 「いや、あの、お好み焼き……自分たちで焼くんじゃ……」 「ああ、うちは店の人間が焼くんですよ。やっぱり慣れてる人間が焼いたほうが美味しいですからね。じゃあ、蓋をしますね。ひっくり返すころにまたきますんで。それまで触らないでくださいねー」  店員がいなくなり、あとには銀色の蓋が被せられたふたつのお好み焼きだけが残された。

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