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月の欠片 1

『平凡君の非凡な日常』番外編です 鳴に誘われてデートすることになった雪生の話 月臣も登場します 時系列的には『世界の果てでおにぎりを』より前になります  *   *   * 「雪生、明後日の夜って空いてる?」  夏休みも後半に差しかかったある夜のことだった。  夕食が終わって部屋にもどると、鳴が妙にキラキラした目で訊いてきた。その顔がやけに可愛く見えて、雪生はほとんど無意識に唇を寄せていた。柔らかな唇を軽く吸ってすぐに離れる。  鳴は呆気にとられた表情で雪生を見つめてきたが、少しの間をおいてキスされたことに気づいたらしく、頬を真っ赤に染めた。 「ちょ、え、なに、なんなの。いまキスするような場面だった!?」 「いまのはごちそうさまのキスだ」  雪生は開き直るでもなくあっさりと言った。自分と鳴は恋人同士なんだから、どういった理由でキスしようが、いつどのような場面でキスしようが問題はないはずだ。 「ごちそうさまとかおはようとか、そういうことでいちいちキスしなくていいから! いつも言ってるけど、言葉で言ってくれればそれでいいから! 特に俺の実家にいるあいだはやめてくれない? 俺たちのことが家族にバレたら気まずいでしょ。っていうか、ごはん作ったの俺じゃなくって母さんだからね。あっ、だからって母さんにキスしたりしないでよ!」 「俺はバレても気にしないけどな」 「雪生はしなくても、ごくごくごくふつーの神経の持ち主の俺はするんだよ!」  おまえのどこが普通なのか、とツッコみたいところだが、これ以上血圧を上げてしまっては健康にあまりよろしくない。 「明後日の夜なら空いていないが、おまえがどうしてもと言うなら空けてやってもかまわない」 「……なんていうか骨の髄から尊大だよね、雪生って」  鳴は呆れた口ぶりで言いながらベッドに腰を下ろした。  雪生としては先約よりも鳴の誘いを優先する、という意味で言ったのだが、尊大と捉えられてしまうとは。  俺には少し素直さが足りないのかもしれないな、と心でひそかに反省する。なにせ相手は素直と単純を足して十をかけたような相馬鳴だ。遠回しな言いかたが通じないのは当然だ。 「鳴」  雪生が隣に腰を下ろすと、鳴はびくっと肩を竦めた。 「な、なに」 「おまえから誘ってくれたのは初めてだな」  肩に手をまわすと、ますます肩が縮こまる。 「そ、そうだっけ?」 「おまえから誘ってくれて嬉しかった。先約は断るから、ふたりで出かけよう」  顔を近寄せると、鳴は胸をぐっと押してきた。 「近い! 近いから! もうちょっと離れてくれない!?」 「近づかないとキスもできないだろ」 「さっきしたばっかりなんだからできなくっていいんだよ! 心臓がもたないからちょっと離れて! ……えっと、つき合ってくれるのは嬉しいんだけどさ、先約は大丈夫なの?」 「数名での約束だから、俺ひとりが抜けたところで問題ない。で、明後日はどこにいくんだ」  鳴は雪生の問いかけに満面の笑みを浮かべた。その表情でサプライズを企んでいるのが丸わかりだ。これほどサプライズに向いていない人間もいないだろう。  雪生を驚かせたいのか、喜ばせるつもりなのか。それともその両方なのか。  存在自体がサプライズなんだから、これ以上人を驚かせるな、と言いたいところだが、偶のことだからのってやることにしよう。  鳴は得意げな表情で人差し指を立てた。 「ふっふー。それは秘密です――って! だから! いちいちキスしないでくれる!?」  いちいち可愛い顔をする奴が悪い。  雪生は涼しい表情で鳴の文句を受け流した。  二日後、雪生は鳴と共に東京へ出向いた。鳴に言われるままに新橋でゆりかもめに乗り換える。  さあ、いったいどこへつれていってくれるのか。期待半分、恐ろしさ半分といったところだったが、 「じゃあ、まず日本科学未来館にいってみようよ。元宇宙飛行士の人が館長らしいし、宇宙飛行士を目指してるなら興味あるでしょ」  鳴の口から出たのは、日本科学未来館という割りに無難なスポットだった。なにを言い出すかと思っていたので拍子抜けする。 「なにその顔……。あっ、ひょっとして何回もいったことあるとか? 雪生、アメリカに長いこといたから、いったことないんじゃないかなって思ったんだけど……」 「いや、あることはあるが、子供のころに一度いったきりだ」  ならよかった、とホッと息をつく。  日本科学未来館は最先端の科学技術をテーマにした施設だけあり、前におとずれたときとはアトラクションが様変わりしていた。ふたりで様々なアトラクションを試してみたり、プラネタリウムを観たり、売店でお互いにちょっとしたプレゼントを買ったり、まるでごく普通のデートのようだ。  楽しいか楽しくないかと問われたら、非常に楽しい。意識しなくても勝手に笑みが零れっぱなしになるくらいには。が、しかし――  鳴とのデートが「とても楽しい一日でした」で終わるはずがない。きっとどこかで波乱がおとずれる。  日本科学未来館を出たのは午後三時ごろ。 「雪生、どうだった? 少しは楽しかった?」  鳴は広々としたエントランスを歩きながら、瞳をきらきらさせて訊いてきた。思わず真顔になる。気を引き締めないと衝動的にキスしてしまいそうだったからだ。 「なにその顔。……ひょっとしてすごーくつまらなかった? やっぱり国会図書館のほうがよかったかな……。どっちにしようか迷ったんだよね……」 「楽しかった」  恋人を落ちこませるのは趣味ではない。雪生はきっぱりとした口調で言った。  エントランスを抜けると、途端に真夏の陽射しが降りかかる。 「俺の好みに合わせて選んでくれたんだろ? 宇宙や科学は俺がいちばん関心のある分野だからな。その上、隣にはおまえがいるんだ。楽しくないわけがないだろう」  今度は鳴が真顔になる番だった。 「雪生って――」 「どうしたんだ。納豆味のケーキを食べたみたいな顔をして」 「それどんな顔なの。……や、雪生ってひどいこともずけずけ言ってくるくせに、恋人っぽいことも平気で言ってくるからさ。ときどき上手く対応ができなくなるんだよ」  そういえばこいつの前で自分自身を取り繕ったことは一度もないな、と今更にして気づく。プラスの感情もマイナスの感情もいつだって素直に伝えてきた。両親でさえここまで率直に向き合ったことはないかもしれない。  雪生の背中には生まれたときからSAKURAがのしかかっている。純金のように魅力的で、純金よりも重い荷物が。雪生とSAKURAを切り離して考えるなんて、両親にも雪生自身であってもできやしない。  隣を歩いている少年の顔を改めて見つめる。これといって特徴のない顔立ちなのに、どれほどの人ごみに紛れても、ひと目で見つけられる自信がある。  俺とSAKURAを切り離せるのは世界中でこいつだけだろうな……。心でそっとつぶやく。  この平凡で凡庸な少年が、雪生にとっての唯一無二だ。絶対に失うわけにはいかなかった。

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