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青いノートの秘密 7

「奴隷になるためには契約書にサインしないといけないんじゃないの?」 「マヌケのくせに鋭いな」 「マヌケは余計だ! 俺、契約書にサインなんかしてないんだけど。ってゆーことは、俺は奴隷じゃないっていうこ――」 「安心しろ。俺が代わりにサインしておいてやった」  ……安心しろの使いかたがやっぱりおかしい。というか、勝手に契約書にサインしておきながら「してやった」とは。どこまで俺様なのだ、この男は。  雪生は素知らぬ顔でブランドマークの入った薄手のセーターに袖を通している。 「そういうのってギゾーがなんとかかんとかって言うんじゃないの!? 犯罪だよ、犯罪! おまわりさーん、この人でーす!」 「文書偽造の罪と言いたいのか? しかたないだろ。おまえが素直にサインするとは思えなかったからな」 「いやいやいや! なにその開き直り! 俺は契約書にサインしてないんだから、雪生の奴隷じゃないってことだよね?」  よかった。これでめでたく奴隷という立場から解放される。  幸いなことに雪生の奴隷になりたがっている物好きは大勢いる。その中から優秀な人材を選べばいいのだ。マヌケだアホだと腐す鳴ではなく。 「……俺の奴隷でいるのはそんなにも嫌か?」  嫌に決まってる、と咄嗟に口にできなかったのは、鳴を見つめる雪生の瞳が淋しげに翳っていたからだ。主人を失った犬みたいな、見ているほうがきゅんと切なくなる表情。  高慢かつ傲慢かつ驕慢な桜雪生がこんな表情をするなんて。  鳴はたじろいだ。 「い、嫌っていうか――嫌だけど――」 「……俺は楽しかった。鳴、おまえと過ごした一日半は、久々に楽しい時間だった。こんなに楽しいと思えたのは久々だ。……でも、そこまで嫌がられているのならしかたないな」  淋しそうな眼差しはそのままに口許だけで微笑む。  心の奥できしきしと音がした。良心が軋んだ音だ。  ひょっとするとこの尊大極まりないご主人様は淋しい人なのかもしれない。生徒会長に選ばれるくらいだから人望はあるんだろうが、優秀さ故に、あと尊大さ故に周囲から一歩も十歩も引かれてしまうのかもしれない。  友人ならいると言っていたが、今のところそれらしき人物は見当たらない。あれはただの強がりだったのでは――? 「いや、誰もそこまで嫌だなんて言ってないでしょ」 「いいんだ、無理しないでくれ……」  良心がぶるっと身震いした。殊勝な雪生なんて痛々しいのを通り越して不気味ですらある。  雪生は悄然とした様子で鳴の隣に腰を下ろした。俯いてしまっているので表情はよく見えないが、肩のあたりに淋しい、哀しいと言わんばかりのオーラが漂っている。 「無理なんかしてないって。俺もほんのちょっとくらいは楽しかったような気がしないでもないし」 「……ほんとうか?」 「ほんとうだって」  雪生は顔をのろのろと上げると、 「じゃあ、右手を出してくれ」  促すように自分自身の手を差し出してきた。  右手? と頭の中に疑問符を浮かべながら、素直に右手を雪生の手にのせる。雪生は鳴の右手をぎゅっとつかむと、人差し指の腹にひんやりしたものを押しつけてきた。  何事かと思って見てみると、ひんやりしたそれは朱肉だった。なんだってそんなことをするのか、という疑問はすぐに消えた。  いつの間に用意したのか、雪生は机の上の書類らしき紙に鳴の指を押しつけた。鳴の名前の横に赤々とした拇印がはっきりと浮かび上がる。 「これで契約完了だな」 「えっ? あっ、ちょっ! まさかそれ奴隷の契約書!?」 「決まっているだろ。これは奴隷契約書だ。おまえはつくづくマヌケだな」  雪生は憐れむように微笑んだ。その顔のどこにも先ほど垣間見せた淋しさは見当たらない。  そこにいるのはいつもの尊大で俺様でこの上なくムカつくご主人様だった。

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