55 / 279

桜舞う 5

 鳴は朝人を階段の手前まで送ってから部屋にもどった。  ソファーに座ってぼんやりしていると、なんの前触れもなくドアが開いた。入ってきたのはこの部屋の主、桜雪生だ。 「あれ、おかえり。早かったね」  夕食まで帰らないと言っていたのに、時刻はまだ十六時にもなっていない。 「祖父に急用が入って、途中で切り上げて帰ってきた」  鳴は綺麗に整った顔を奇妙な感慨をもってながめた。  朝人から聞いた話が耳の奥で蘇る。  容姿も頭脳も運動神経も家柄もそろっていながら、いや、そろっているからこその苦労もあるんだな。  そう思うと、この尊大極まりないご主人様を少しは労ってやろうという気になってくる。 「人の顔をじろじろ見てどうしたんだ。……ああ、そうか」  雪生は手にしていた小振りの紙袋をテーブルに置くと、鳴の前まで歩いてきた。ソファーの背もたれに手をついて、ぐっと身を屈める。  目と目が間近で合った。と思った瞬間キスされていた。 「――だから! 何度も何度も言ってるけど、脈絡なく人にキスしない!」  鳴は雪生の胸元を押しやると、ソファーの上でずさささっと逃げた。 「おまえが意味ありげに見てくるから、ただいまのキスがして欲しいのかと思ったんだ」 「そんなわけあるか!」  全身全霊でびしっとツッコミを入れる。  鳴のご主人様はやっぱりちょっと、否、かなりアホなのかもしれない。女の子にモテる上に男子からも絶大な人気があるおかげで、誰もが己を欲しがっていると勘違いしているんじゃないだろうか。  こんなに無節操にキスしまくっていてよくもまあ今まで問題にならなかったものだ。鳴が知らないだけでとっくに問題になっているのかもしれないが。 「瀬尾はもう帰ったのか」  鳴の渾身のツッコミを気にした様子もない。雪生は涼しげな表情で鳴と同じソファーに腰を下ろした。 「うん、少し前に帰ったよ。雪生にお礼とお邪魔しましたと伝えてくれって」  あの後も鳴は朝人といろいろな話をした。  朝人が中学生のころいじめに遭っていた話や、そのときクラスメートのひとりが助けてくれた話。そのクラスメートがしてくれたように、困った人がいたら手助けしようと心に決めていたということ。  それから朝人のお宝コレクション――雪生の隠し撮り写真も見せてもらった。  キングの写真は一枚五百円から数千円で売買されているらしい。すべて隠し撮りなので明後日の方向を見ていたり、被写体が小さかったりするのだが、生徒たちはよろこんで買っているそうだ。  鳴には理解不能だ。理解してしまったらなにかが終わるような気さえする。

ともだちにシェアしよう!