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ファーストキスは甘くない 2
「気になる? どうしても聞きたいって言うのなら教えてあげなくも――いだだだだッ! 頬が千切れる!」
頬を全力で抓られて悲鳴を上げる。やばい。雪生は本気で鳴の頬を千切りにかかっている。
「もったいぶらずにさっさと言え」
「言う! 言うから!」
ようやく指が頬から離れた。鳴はひりひりする頬をそっと撫でた。絶対に数ミリは頬が伸びたはずだ。このままだと大黒様そっくりの輪郭になってしまうのも遠い未来の話じゃない。
「あのさ、俺のほっぺは抓られるために――」
「おまえの頬は俺に抓られるためにあるんだ」
……さすがは天上天下唯我独尊のご主人様である。言い切られてしまうと反論するだけの気力が湧いてこない。
「いったいどうして朝からそんなに上機嫌なんだ。楽しい夢を見たから、なんていうふざけた理由だったら反対側の頬を抓るからな」
「えっ!? いや、ちょっと待ってよ!」
「夢が理由なんだな」
雪生の手がすっと持ち上がった。鳴は慌ててその手をつかんで押しとどめた。
「夢だけど夢じゃないんだって! むかーしむかしの思い出を夢に見たんだよ! だから、夢だけど現実なの!」
「いったいどんな思い出なんだ」
待っていました、と手を叩きたくなるような質問だった。鳴は不敵な笑みを浮かべて雪生を見つめたが、返ってきたのは世にもしらけた視線だった。
人に聞いておきながら視線で「ミジンコほども興味がない」と伝えてくるとは。わかっていはいたがつくづく失礼な人だ。
「夢で思い出したんだけど、俺のファーストキスの相手は雪生じゃなかったんだよ」
「――は?」
鳴はびくっと肩を震わせた。雪生の声が不穏なまでに低かったからだ。
「い、いや、だから、俺のファーストキスの相手は雪生じゃなかったって話。忘れてたんだよ。すっごく昔に女の子とキスしたこと。ファーストキスの相手が男なんて、ってちょっとだいぶ絶望してたんだけど、ちゃーんと女の子と済ませてたんだよ。あー、よかった。これで俺の未来は安泰だ」
雪生は無言だった。無言で鳴の顔を見つめている。雪生の視線に息苦しさを感じて、鳴はらしくもなく目を逸らした。
「相手は誰なんだ?」
「えっ?」
そういえば相手は誰なんだろう。キスするくらいだからそれなりに親しかったはずなのに名前すら記憶にない。
幼稚園が一緒だった? それとも近所に住んでいた?
考えてみたが思い出せない。
可愛い子だった。絶世の美少女と言ってもいいくらいだ。黒猫を思わせるぱっちりした瞳と艶々した黒髪をしていた。
思い出すと心臓がざわざわと落ち着かなくなる。切ないような甘いような。
この感覚はなんなんだろう。
「え、えーっと、それはちょっと覚えてないんだけど……」
「ファーストキスの相手を覚えていないのか。さすがは鶏頭だな」
「しょ、しょうがないでしょ。むかーしむかしの話なんだから。たぶん幼稚園か小学校に入ってすぐくらいの出来事だと思うよ。その子、すごく泣きじゃくっててさ。どうにかして泣き止ませようと思ってキスしたんだよ」
そういえばどうして泣いていたんだっけ? 理由があったはずなのに。思い出せないことばかりでもどかしい。
「おまえにキスされたのが嫌で泣いたんじゃないのか?」
雪生は冷ややかな眼差しで冷ややかな言葉を投げつけてきた。
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