101 / 279
朝顔少年 7
「雪生、どうしたの?」
雪生は俯いて廊下に突っ立ち、口許を手で押さえている。いきなり気分でも悪くなったんだろうか。
鳴は焦りながら小走りで雪生の元へ駆け寄った。
「ちょっと大丈夫? 気持ち悪くなっちゃった? 朝ごはんが腐ってたのかな。俺はなんともないんだけど。雪生の胃って俺より繊細そうだもんなー。雪生、保健室にい――ぎゃっ!」
思わず叫ぶ。顔をのぞきこもうとしたら雪生が片手で顔面をつかんできたからだ。みしみしと骨が軋む音が聞こえた、ような気がした。
「見るな」
「痛いッ! ちょっ、痛いって! 顔がひしゃげる!」
顔色を見ようとしただけなのに顔面を潰しにかかるなんて。理不尽にもほどがある。
幸いと言っていいのか、指はすぐに離れた。
「いきなりなんなんだよ、もう! 顔が変形するかと思っただろ!」
鳴は指の感覚が残っている顔をさすりながら涙目で文句を言った。
「ひょっとしてすべてわかって言ってるのか?」
「は?」
雪生は実に奇妙な表情だった。腹を立てているようにも途惑っているようにも期待しているようにも見える、複雑な表情。
頬がうっすらと赤いのはなぜなのか。
「言ってる意味がわからないんだけど。雪生、もしかして風邪ひいた? 顔が赤いよ」
体温を確かめようとして手を伸ばす。が、額に触れるより早く雪生が手をつかんできた。
「うわっ!」
手を強く引っ張られて雪生の胸に倒れこむ。びっくりして顔を上げた瞬間、唇を塞がれた。
(ちょっと! ここ廊下なんですけど!?)
雪生とキスしているところを他の生徒に見られたら、間違いなく殺される。崇拝の対象を汚した大罪者として。
鳴の脳裏に、磔獄門に処される己の姿がまざまざと浮かび上がる。嫌だ。まだ死にたくない。死ぬとしてもできるかぎり苦しまずに死にたい。殺るならひと思いに殺って欲しい。
鳴は全力で抵抗しようとしたが、それより先に――
「――いッ!?」
雪生が唇に噛みついてきた。割と容赦のない力で。
「いっ――いだだだだ!」
悲鳴を上げて口許を押さえる。
黒豹に似ていると思ってはいたが、まさか獣のごとく噛みついてくるなんて。上品な顔立ちに似つかわしくない狂暴さだ。
「ちょっと! さっきからなんなんだよ! 人の顔面をアイアンクローで潰しにかかったり唇に噛みついたり! 俺、雪生になにかした!?」
唇の裏側を舌で確かめると、かすかに血の味がした。
鳴はふたたび涙目で抗議したが、雪生はすっと顔を背けると生徒会室へ向かって歩き出した。
「さっさとしろ。今日も仕事は山のようにあるんだ」
「誰のせいで時間をロスしたと思ってんの!」
鳴は雪生の背中を睨みつけたが、雪生は振り返ろうともしない。しかたがなく後をついていく。
今日の雪生はあまりにも理不尽であまりにもわけがわからない。情緒不安定もいいところだ。あとで甘いホットミルクでも作って与えることにしよう。少しは情緒が落ち着くかもしれない。
「鳴」
「なに」
狼藉を謝る気になったのかと思ったが違った。
「思い出せるといいな。ファーストキスの相手が誰だったのか」
「え? あ、うん」
思いがけないことを言われて、間の抜けた声が出た。
雪生はやっぱり振り返らない。いま雪生がどんな表情をしているのか、無性に知りたくなったのはどうしてだろう。
前にまわりこんでみようか。
いや、そんなことをしたら今度こそ顔が変形するかもしれない。頬骨を粉砕されるのはごめんである。
人間らしい輪郭を守るため、鳴は雪生の表情を確かめるのを諦めたのだった。
ともだちにシェアしよう!