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旅行編 1 君まで
カランコロンって、下駄の音は聞いただけでわくわくする。いつもと違う足音が、いつもと違う楽しさを連想させてくれる。
夏は、季節の中で一番好きなんだ。
お父さんが夏の空を見上げて今にも泣いてしまいそうな悲しい顔をしなくなった頃から、夏が好きだった。外で泳ぐことができるから。
屋外プールの、あの、夏の陽差しが入り込んだ水の世界は特別綺麗な青色をしている。それに、日が延びるから、一日が長くなったような気がして、なんでもできそうな気がしてくる。でも、今年は――。
「伊都!」
もっと、ずっと、夏を好きになりそうな気がする。
「日向」
お日様と同じ名前を持った君と過ごす、初めての夏だから。
これはダメかもしれない。
「すごい人だね。俺、去年は花火大会来なかったから」
うん。ダメ、だよ。全然、ダメです。
「こんなに賑わうんだね。……伊都?」
まさか、君の浴衣姿がこんなだなんて思いもしなかったから。
「あ、あの、伊都? どうか、した?」
花火大会一緒に行こうって話してた。話してはいたけどさ。想像なら……めっちゃしたけどさ。想像以上だったなんて。
「変、だった? へ、変だよね。チビだし、そのっ」
「日向! 危なっ」
慣れない下駄に、歩道から溢れそうなほどの大混雑に、日向がよろけて、慌てて手を伸ばした。
「……危ないから」
「ご、ごめん、なさい」
手を掴んであげるだけでよかったかもしれないけど、俺は咄嗟に抱き締めちゃって、抱き締めちゃったら、腕の中にすっぽり君が収まってしまった。そして、君が俺の胸に頭を預けるように俯いたりするから、白いうなじが丸見えで。
正直、困る。
「浴衣、がっかりさせて、ごめん」
「! まさか! すっごい、似合ってる」
うん。だからさ、だからこそ、すごく困ってるんだ。君が可愛いすぎて、でもここは駅前で、花火大会で、人がいっぱいだからと、そう心の中で何度も唱えた。
ダメだよ。白いうなじにキスをしちゃダメ。
「ほ、ホント?」
「うん。とりあえず見惚れてる」
「よかった」
褒められたと嬉しそうに微笑む君の唇にキスをするのも、ダメ。抱き締めたままでいるのも、もちろんダメだ。
「行こうか」
「あ、うん」
でも、君の手を繋ぐくらいなら、いいよね。
「手、あの、伊都」
「大丈夫だよ。暗くて見えないし」
皆、花火を見上げることに忙しくて、下を向いてる人なんていないから。そう説明すると、まるで花火が「そうだそうだ。皆こっちを見ているから」と手助けをしてくれるように、真っ暗な夜空に打ちあがった。
「あ、伊都、始まった!」
ひゅーって音を立てて、光の龍のように立ち上ったかと思ったら、大きな破裂音が辺りの空気を揺さ振る。
「うわぁ」
皆が一斉に夜空を見上げる中、君と手を繋いでる。花火の音の合間に君の鳴らす下駄の軽やかな、カランコロンって音が聞こえる。
「綺麗だねぇ、伊都」
君の声が今日は一段と嬉しそうに聞こえる。
「うん……」
空を見上げて、花火をその瞳に咲かせてふわりと笑う君を、俺は見てる。君と過ごす、初めての夏に、どうしたらいいのか戸惑うくらいに、ドキドキしてる。
「あ、あの、伊都?」
「ん?」
「あの?」
「腹減った? 暑いから喉乾いた?」
ううん、と首を横に振ると、今回は上手く切れたと言っていた前髪がユラユラ揺れた。美容師になりたい日向は自分の髪を練習代わりに切っている。つい最近切ったばかりの前髪はちょっと短くて、その可愛い顔が丸見えでさ。嬉しいけど、困ったりもして。だって、君の可愛さに気がつく子、出てくるだろ?
「見、見すぎ」
「だって……」
花火よりも、浴衣姿の君のほうが見ていたいんだから仕方がない。短い前髪はあどけなく笑う日向をもっと可愛く見せるから、目がどうしたって釘付けになるんだよ。
「昔さ、小学生の頃、女の子に花火大会に誘われたんだ」
「えっ!」
驚いて、少し羨ましそうに口をキュッと結んでるのが、青色の花火の光に照らされた。
「おばさんちに、夏、ひとりで三日間お世話になったんだけど、その時、プールでなんでか一緒に泳いでた女の子。俺、クラスで背が高いほうだったけど、そんな俺より背が高かったから、学年上だったのかな」
「と、年上の……女の子……」
「っぷ、そんなにショック受ける?」
「う、受けるよ! 初デートが! あれ?」
そう、俺の初恋は君で、全部、君が初めて。キスも、それ以上も、デートだって。
「断ったよ。そんで、おばあちゃんのうちで皆で見てた」
「そうなんだ……」
ホッとしたって顔をしてる。前髪を切る前から俺は知ってたよ。クルクル表情が変わるって。君はすごく感情豊かだなって。
「見に行くなら、好きな子と行きたかったんだ」
「……」
「これもお父さんと睦月の影響」
家族でこの花火大会に来たことならある。子連れだから、浴衣なんて風流なものは着てなかったけど、でも、お父さんを見て嬉しそうに笑う睦月と、はにかんで、耳を真っ赤にするお父さんを見上げながら、思ったんだ。
「好きな人と来たいなぁって」
「……」
「だから、日向まで待ってた」
いつ誰かはわからないけれど、睦月みたいな笑顔で、お父さんみたいな照れ顔で、花火デートをしたかったんだ。
「お、俺までって、そんなの」
「うん。日向まで」
「っ、い、伊都ならっ、たくさん誘われたでしょ? その、女子に」
「うん。誘ってもらったこと、あるよ? あるけど、好きな子じゃないから、断ってた」
君が真っ赤になった。耳まで真っ赤っか。
「日向が初めて」
お父さんみたいに照れた顔をしてるのかな。でも、俯いてしまってるから、前髪が短くてもちっとも見えない。
ひゅぅぅぅぅ……。
一拍くらいの間があった後。
「!」
大きな大きな花火の音が辺りの空気を揺さぶった。そして花びらが舞って落ちるみたいに火花が真っ暗な空に踊った。まるで、日向が今どんな顔をしているのかを見たい俺を手伝うように。
「うわぁ、すごい」
あまりに大きな爆発音に日向が思わず顔を上げて、夜空一面に広がる光のすだれに目を奪われる。その夜空一杯に溢れる光で君の照れて真っ赤になった表情がやっと見えた。そんな君に見惚れた俺はあの時の睦月みたいに笑ってる、のかもしれないって、そう思っていた。
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