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旅行編 3 恋がはしゃいでる

 日向は三年になってからプールに通うのはやめた。受験もあるし、もう泳げるようになったから。でも、一番の理由は俺が水泳に集中できるように、だと思う。 「日向!」  あんなに疲れてた身体が身軽になった気がした。 「ご、ごめん。あの。外で待ってようと思ったんだけど。スタッフさんが俺を見つけて、伊都待ってるなら、中で待ってればって」 「どうかした?」 「あ、ううん。明日、旅行でしょ?」 「うん」 「これ」  小さな紙袋をスッと差し出した。 「うちの親が、旅行、お世話になりますって、伊都のお父さんたちに」 「え?」  明日、かなり早い時間に出発だから、バスはまだ走ってなくて、うちのお父さんが日向の自宅近くのコンビ二へ車で迎えに行くことになってる。そんで、駅まで連れてってくれるから。だから、お菓子は、別にわざわざ今持って来なくても。 「っていう、理由で、会いたかっただけ……だったり、します」 「……」  今日は明日の旅行のために少しだけ早く上がった。いつもならもう少し薄暗くなってからなんだけど、今日は夕陽がまだ向こうに見える。その夕陽のせい? 君のほっぺたが真っ赤なのは。 「ありがと。嬉しい。けど、明日でもよかったのに。あ、もしかして生菓子? ケーキとか」 「! もっ、もお! 意地悪だっ!」 「ごめんごめん」  だって、明日から丸々一日一緒にいるんだよ? それなのに会いたいって思ってくれたってことだ。会いたくて、わざわざお菓子を理由に来てくれたってこと。  このお菓子屋さん知ってる。隣の駅前にあって、日向がここのクッキーがすごく好きだって前に教えてくれた。そこの焼き菓子。賞味期限はたぶん、とりあえず明日じゃない。そんなお菓子を届けに来てくれた君のことが好きで、つい、意地悪したくなっちゃったんだ。  可愛すぎる君がいけないんだよ。 「ありがと。お父さんに渡しとく」 「……」  だから、口をへの字にしたところで可愛いだけで、もっとからかいたくなるだけのことだよ。 「そんなむくれないでよ。日向」 「……なんか、久しぶりに見た。泳いでるとこ」 「え? でも学校で見たじゃん」  学校の授業で水泳があったのは三週間くらい前。夏休み前にテストがあったから水泳の授業はなし。で、そのまま夏休みに突入した。ふたりでプールデートはしなかったんだ。混んでるだろうから、泳げないよって。それなら別の場所にしようと、映画とか、ショッピングとか。 「……カッコよすぎだ」  ちょっと嬉しかった。背も伸びたけど、ガタイよくなったでしょ? 肩と背中の筋肉重点的につけたから、けっこうしっかりなスイマー体型になれたと思う。もちろん、泳ぎのためだけど、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、日向にカッコいいって言われたら、なんてことを妄想したりしていたから。 「ありがと」 「! な、なんか! なんか! なんか」 「何? 日向」 「もおおお、なんでそんな余裕なんだよっ」  余裕なんかじゃないよ。内心、おおはしゃぎしてる。  慌てる君は可愛くてすごく好きなんだ。最初の、あの真っ白なコートを着た雪の妖精みたいだった印象なんて消し飛ぶほど、手足をばたつかせて、慌しく話す君がたまらなく可愛い。  それに、君のお母さんたちが旅行のことを少しも怪訝な顔をせずに承諾してくれた。君と二人っきりで過ごすことをわかっていて、日向のお気に入りのお菓子をくれた。それはとってもすごいことだ。男同士だろうと、男女だろうとさ、親が自分の子どもが付き合ってる相手のことをこんなふうに考えてくれて、歓迎してくれるって、すごく幸せなことだ。嬉しくて、ちょっと感動もしてしまうから、胸のうちではかなりはしゃいでる。だから――。 「ぁ、でもさ、日向」 「?」 「裸、見たのは三週間ぶりじゃないじゃん」 「!」 「俺の裸なら、この前、お父さん達がいなかった」 「! うわあああ! 伊都っ!」  だから、ついからかってしまうんだ。本当は、俺の裸を日向だけはもっと近くで、誰よりたくさん見てるって、言いたかったんだけど、夕陽以上に真っ赤になって照れる君の両手が俺の口元を覆い隠しちゃったから、それを言うことはできなかった。  明日も会えるのに。  明日からしばらくずっと一緒にいられるのに。  それでももっと会いたい俺たちは、プールからの帰り道、そんなふうにからかって、じゃれ合いながら、ゆっくり、ゆっくり歩いていった。  水着、着替え、海で使うタオルに、旅行のパンフレット。それと……。 「……」  その、色々、必要な、もの。  その気満々っぽい? でも、いるでしょ? ほら、色々と、あの時に。泊まりだからって、期待しすぎ? いや、別にそれが目的じゃないよ。違うけど。でも、夜一緒に過ごすわけだから、その、やっぱり期待はして、る。だから、これは持っていかないといけないっていうか。使うから。 「いいいいとおおおお! 早くしないと。日向君を迎えに行く時間が」 「は、はははっ、はーい!」  荷物の最終チェックをしていた俺は玄関先で待つお父さんの声に慌てて、それを鞄の奥底に突っ込んだ。  好きな人といく初めての旅行。 「忘れ物は?」 「な、ない」  好きな人と、初めて、丸々一日以上一緒にいられる。 「よし、それじゃあ、出発」  玄関先まで見送ってくれた睦月に手を振って、お父さんの後を駆け足でついていく。日向を乗っけて、駅まで送ってもらって、そこからは、本当に二人っきりだ。 「ね、伊都」 「ん?」 「気をつけてね。海なんだから」 「……うん。大丈夫」  お父さんにしてみたら心配だよね。海を克服しても、その時に味わった怖さはずっと残ってる。  信号が赤になって、車が止まって、真っ直ぐ前だけを見つめてる。少し緊張してそうな横顔だった。 「大丈夫だよ。俺、睦月に泳ぎ教わってるんだよ?」 「……」 「だから、大丈夫」 「……うん。そうだったね」  平気だよ。お父さんはあまり見たことがないと思うけど、ライフセーバーになりたいって言ってからの睦月は本当に厳しいから。水の中の怖さをちゃんと俺に教えてくれてるから。 「あ、ほら、伊都が遅いから、日向君、コンビ二の中で待っててって言ったのに」 「あ、おはようございます!」 「おはよう。日向君。今日は宜しくね」 「こちらこそ! あの、宜しくお願いします!」  朝が早すぎるからって、うるさくするとご近所迷惑になるとコンビ二集合にした。それなのに、すごく元気に挨拶する日向の大きな声が朝焼けの空に見事に響き渡っていて、思わず笑った。 「はい。じゃあ、日向君も乗って」 「は、はい!」  そんな日向に、お父さんもふわりと笑ってくれていた。

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