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ファイヤーサンダー 5 嫌な言葉、嫌な気持ち、嫌な俺

「あれ? 佐伯?」  びっくりして、返事ができなかった。 「へぇ、お前ってこの辺がうち? 俺ら、さっきまでそこの居酒屋で飲んでたんだよ」 「あ、何? お前、佐伯も誘ったの?」 「うん。だって、女の子、同じ学科の佐伯君もっつってたじゃん」 「ダメだよ。佐伯、彼女いるんだって。男同士の飲み会ならまだしも、女の子ありのは無理無理。すっごい一途なんだよなー?」  自分のことなのに自分自身がひとつも入ってない会話を眺めていた。シラフの俺と、酔ってるテンションが違いすぎて戸惑うばかり。 「すげぇ、今度写真見せてよー。イケメン佐伯が一途に思う彼女、すげぇ拝見したいわぁ」 「じゃあ、今度女の子がいない席設けようぜ。なぁ、佐伯、それだったら来るだろ?」 「あー、けど、水泳の大会とかあったんだっけ? 秋が終わったばっかだからしばらく大丈夫? 夏は夏で忙しそうだしさぁ。つうか、いつも忙しそうだしさぁ」 「イケメン佐伯はモテモテっすな」 「そんじゃーなー」 「次、男飲み付き合えよー」  夜の十一時すぎ、大学生男子ふたりの遠慮のない声は駅に向かう階段でやたらと響いてる。そんな二人の背中を見送るようにその階段を目で追うと、そこに、日向がいた。 「日向!」  ふらふらと、階段すら危なっかしい二人が通り過ぎたところ、階段を降りず、途中で立ち止まり、壁に寄りかかっている。目の前を通り過ぎた二人を見送っている後ろ向きの顔。白い首筋が明かりに照らされてやたらと白く見えた。 「ごめん。持つよ」 「……今の二人、大学の?」 「あー、うん、この辺で飲んでたんだって」 「……」 「日向?」  やっぱり大きな荷物を持ってた。それを代わりに持とうと手を伸ばしても、日向は手渡さず、まだ、向こうにもう見えなくなった大学の奴らを見送っていた。 「伊都、大学、すっごい忙しいのに、大丈夫?」 「え?」  寝ててもいいよって言ったけど、助手席に背中を預けた日向は眠ることなく窓の外を眺めてた。  よくふたりでここも歩いたっけ。高校生の俺は自転車を引きながら、日向は隣を歩きながら。カラカラカラ、って、自転車のタイヤが回る音と日向の楽しそうな声。あと、話の途中で興奮し出すとほっぺたが赤くなってさ。それが夕方だと太陽のせいなのか、わかんなくて、じっと見つめてた。 「さっき、大学の友だちがそう言ってた」 「あー、うん。まぁ」  忙しいことは忙しいよ。睦月のツテを使って、スポーツクラブで事務のバイトもしてるから。バイト代も出て、尚且つ営業時間外にプールを使わせてもらえるし。けど、だからって飲みに行けないわけじゃない。 「もしかして、俺に合わせてたり、する?」 「……」  その時間があるなら、日向に会いたいってだけ。 「違うよ」  それは重い、かもしれない? 日向の声は高校生の時、ここを自転車で通った時の声みたいに弾んでいなかった。 「けど、大学のあと、こうして俺を迎えに来てくれた。でもさ、さっきの友だちに飲みに誘われてたんでしょ? それを断って、運転手してる」  カラフルで跳ねて踊るような明るい声色じゃない。  仕事に専門学校にって忙しいんだと思う。忙しかったら、疲れてたら、それはきっと声にも滲み出てしまうだろ。  時間は待たない。どんどん進んで、俺らは高校生じゃなくて、大学生になって、それぞれの時間があって、それぞれの生活が、仕事が、ある。 「ダメ?」 「友だちは大事にしたほうがいいよってこと」 「女の子もいたっていうから断った」 「……」  君の言いたいことはわかってる。それぞれ、を大事にするべきだって言うんだろ? 「けど、今度は男だけの飲み会って言ってた」 「うん。行けたらね」 「俺、伊都のことっ」  そこで、日向のスマホが音を立てた。振動してるだけなのに、その音は、音楽を消した車内で、着信音以上に目立ってる。 「ごめん。美容室からだ」 「うん」 「お疲れ様です」  もう十一時すぎ、それでも電話がかかってくるなんて。 「はい。大丈夫です。あ、カットモデルさんの件なら……はい。時間確認済みです。はい。…………え?」  来年からのフルタイム勤務のことも詳しく話したいしさ。今度、一緒に飲みに行かない? そう言ってるのが聞こえてしまった。無音だから、スマホ越しに、ところどころ聞こえにくいけれど、大方そんな、誘い文句が、聞こうとしなくても聞こえてしまう。  男の声で。  そして、日向がちらりとこっちを見たのが、視界の端でわかってしまう。  ありがとうございますって丁寧に伝えて、自宅が遠いから、飲みに行くのは難しい。それに春から本格的に仕事をする時のことは美容室の人事から、それに学校からも聞くことが可能だからって、高校生が教師と話すのとも、俺ら大学生が講師に質問する時とも違う、大人びた声で話していた。 「……はい。ありがとうございます。失礼します」  日向の、俺が知らない声色だ。 「……自宅が遠いからって断ったんじゃ、来年、向こうで仕事始めたら、飲みに行こうってまた言われるよ」 「そしたら、また、断るよ」  それでも、きっと、その電話の奴はまた誘うと思う。あれこれ、なんだかんだって、適当な理由くっつけて日向に酒を飲ませようとする。 「そもそもこんな時間帯にそんな話をする? また三日後に日向はそこの美容院に行くのに?」 「カットモデルのことだったから」  メインはそれじゃないよ。日向を、酒に、誘う、そのための電話だったんだ。 「そうじゃないと思う」 「そんなことないってば」 「なんで? 美容業界って多いって聞くし」 「何が? 多いの? 同性愛者が? 俺とかみたいに?」 「そういうことじゃなくて」 「そういうっ! …………こと、でしょ」  やだ。なんだ、これ。  何? なんで今、「奴」って言った? なんだよ、俺の、その言い方。すごい嫌な言い方だ。日向の職場の人なのに。  気持ちが棘を持ってた。これは八つ当たりだ。日向にばっかりきつい思いをさせてる自分への不甲斐なさから、その日向にこんな言い方をするなんて最低で、最悪で、大嫌いなことなのに。 「……ありがとう。送ってくれて」 「日向、今のは、ごめん」 「ううん。平気。疲れてるんだよ。だから、平気だからさ。大学の勉強と水泳頑張って」 「日向」 「俺は俺のやること、ちゃんと頑張るから」 「日向っ」  おやすみなさい。  そう言ってドアが閉まった。玄関の明かりが「おかえりなさい」っていうように、重たいカバンをあの細い肩にぶら下げた家族を出迎えていた。  暖色系の明かりに照らされた顔は、薄っすら赤く見えたけれど、きっとあれは違う。照れて笑って染まった頬じゃなくて、ただ明かりのせいでそうなっただけなんだろう。  一度も振り返ることのなかったのその斜め後ろから見た日向の表情は硬くて、これっぽっちも楽しそうじゃなかった。

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