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ファイヤーサンダー 7 カッコいい

 っていうかさ、俺、どうする気だったんだろ。これ。 「……」  来たのはいいけど。どう考えたって、日向の邪魔にしかならないじゃん。  夜の八時十分前、もう閉店ぎりぎりに客としては入れないし、家族でもない俺が何をどう言い訳つけて、店にいる日向に――。 「ありがとうございました」  その時だった。日向がお客さんを、たぶん今日最後のお客さんを連れて店から出てきた。にこりと微笑んで、何か話してる。  ワントーン高い声、シルエットだけでもわかる細い首は儚げで、店内にいる時のままの格好じゃ少し寒そうだ。 「是非、また宜しくお願い致します」 「こちらこそ。こんな破格の値段で素敵にしてもらっちゃって最高」 「ありがとうございます」  あぁ、カットモデルさんなのか。そんなこと話してた。車で送った帰り道に。  日向が仕事をしていた。  ついこの間まで高校生で、一緒に笑いながら歩いて帰った制服姿の日向はもうそこにはいない。そこには、背筋を伸ばして深くお辞儀をする、仕事をしている日向がいた。いたけれど、そこは、まだ大学生の俺とは全然厳しい世界だったけど。  俺って……バカ、だなぁ。 「また、是非、宜しく~」 「はいっ」  なんで、置いてけぼりなんて思ったんだろう。寂しいなんて。  日向の胸にはずっと、俺がいるのに。  お辞儀をした瞬間、胸の辺りからチラリと零れるように揺れた指輪が店内の明かりに照らされて光ったんだ。 『ずっと一緒にいよう』  そう約束したのに。拙い、未熟なプロポーズだけれど、でも、俺たちにとってはとても大切な言葉と指輪があったのに。 「ひなっ!」  お辞儀をして頭を上げたところで、ぐらりと日向が歪む。いや、崩れ落ちるように、そのシルエットが揺らいだ。 「日向っ!」  小さな呻き声と一緒に、その場で崩れ落ち、「気持ち悪い」と呟いた口元を真っ白な手で抑えた。 「え? 伊都?」 「日向、待ってて」  抱え上げて、そのまま店内に入るといきなり現れた見知らぬ男に掃除の最中だった店員が目を丸くしてる。けど、なりふりなんてかまってられない。 「すみません! あの、お手洗いをお借りしてもいいですか? 日向、具合が悪いみたいで」 「あ、あっち」 「ありがとうございます」  伊都、そう小さい声で腕の中から日向が呼んだ。わかってるから。吐きそうなんでしょ? 大丈夫だよ。 「平気、吐いちゃいな。楽になるから」 「っ伊都、離れ、て……汚れ」  背中をさすっても、喉奥がひっくり返ったような感じに背中を丸めるけれど、出そうにないみたいだ。だけど吐き気だけは膨れ上がる。身体の内側がしんどいって悲鳴を上げて、日向に知らせてるんだ。 「日向、少しだけ我慢して」 「っ、ダメっ、汚っ」 「大丈夫」  こういうの応急処置で習ってるからさ。きっと素人よりは上手だよ。 「っぐ……」  一瞬、呻いて、そして、力んでいた日向の肩から全部の力が抜けた。 「ごめっ……」 「少し、楽になった?」  そっと背中をさすると服越しでもわかる。掌がじんわりと熱い。日向は体温高いほうだけど、ここまでじゃない。 「ごめん、手……汚しちゃった」 「汚れてないよ」  ちっとも汚れてないから、君はそんな泣きそうな顔なんてしないで。 「待ってて。おしぼりとかもらえるかな」 「伊都っ」 「ん?」  ぐったりしてた。ついさっき、お客さんの前で見せた笑顔、真っ直ぐ伸びた綺麗な姿勢も、もちろん元気な声もない。 「あの……」  ごめんね。ちょっと嬉しいと思っちゃった。  君はとても辛いのに、俺の前ではちゃんと、すごく具合の悪そうな顔をしてくれたことが、嬉しい、なんて思ってしまったんだ。 「また吐きそうだったら、吐いちゃって。あ、鍵だけ閉めないで」  発熱ありそう。けど、お昼はちゃんと食べたっぽいから、食欲は大丈夫かな。嘔吐があるなら、水飲まないと。それと、口ン中が気持ち悪いだろうから、うがいさせて。 「あ、すみません。おしぼり、ひとついただいてもいいですか?」 「あ、はい。あの……」 「白崎日向の友人です。ちょうどこの辺りに来ていたので一緒に帰ろうと待ち合わせてて」  心配そうに熱々のおしぼりを手渡してくれた彼女が、あぁ、と納得してくれた。 「風邪かなぁ、そんなふうに見えなかったのに」 「たぶん、風邪だと思います。あの……今日はこのまま……」 「あ! はい! もちろん」  日向よりもずっと小柄な可愛い女の子だった。でも、美容師だからか、赤みのある髪色の染めていて、白い肌に真っ赤なルージュでアニメのキャラクターみたいな不思議な感じがする。  その子が頬まで真っ赤にして両手を顔の前でブンブンと横に振ってみせた。年下っぽいけど、もちろん年上なんだろうその彼女に一礼をして、おしぼりが冷めないうちにトイレに戻ろうとした。 「君」 「……」  今度、呼び止めたのは、歳でいったら睦月くらいの男性だった。 「……はい」  声でわかった。この前、日向に電話をしてきた人だって。 「すみません。いきなり関係者でないものが失礼しました。白崎日向の友人で」 「あの、一緒に帰る約束されてたみたいですよ?」  隣にいた赤髪の子が手助けをするように理由を添えてくれる。その男性はじっと俺を上から下まで見て、ふと、一点に視線をとめた。 「汚れてる」 「え? あぁ、大丈夫です。まくればいいだけなんで」  吐かせる時に着いたんだ。裾んところが濡れていた。それをまくって、もう一度、深く、背筋を伸ばした姿勢でお辞儀をし、その場を急いで離れた。 「日向、大丈夫」 「……伊都」 「少し顔色戻った。よかった」 「伊都っ」  ぎゅっと、俺の腕に掴まる日向の指にも力が戻ってる気がする。 「おしぼりもらってきた。車で来ればよかったね。ごめん。電車なんだけど、俺、一緒だから。気持ち悪くなったら言って」 「伊都っ」 「うん。大丈夫。一緒にいるから」 「ごめん」  謝るのは俺のほうだよ。父を、母を、それに睦月だって守れて、最愛の君のことを何ものからも守れるヒーローに。まだ、ちっともなれないけれど。  ホント、まだまだだ。 「手、その」 「日向のことを少しでも守りたいんだ。守らせてよ」  それに、少しだけ、君の真似をしたんだ。背筋を伸ばしてお辞儀、あれは社会人として頑張っている君を真似てやってみた。 「俺、言ったじゃん。ヒーローになりたいんだ」  けっこう、カッコよかったと思う。日向にちょっかいを出す、大人の男を撃退できちゃうくらいには、カッコよかったんじゃないかなって。だって、さっきお客さんと話す日向は、すごくカッコよくて綺麗だったから。

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