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バレンタインSS 2 君にすごく会いたい
大失敗。いや、大失態?
「あれ? 珍しい。洗濯物してくれたの?」
まさかの、だよ。
「助かったぁ、今日、ちょっと寝坊だったんだ。ありがとうね。伊都」
「……どういたしまして」
父がふわりと微笑んで眠そうにあくびをした。
ホント、まさかの、だ。
まさかの。
「……」
夢精、とか。
「はぁ……」
思わず頭を抱えた。二十歳すぎて、これはさすがに。いや、でも、日向のあの声はダメでしょ。そりゃ夢見ちゃうし、夢に見たら、そうもなるでしょ。
何時頃だったかな。大学終わって、帰ってからだったから夕飯少し前くらい。あんまり遅いと忙しいかもしれないしって思ったし、それに声が聞きたかったからさ。
電話したんだ。
そしたら、声が掠れてて、なんか、ヤバかった。
『あっ……ごめっ、えっと、寝てたっ……』
少し鼻にかかった感じで柔らかくて、寝ぼけてるのがすぐにわかった。居眠りしてたんだと思う。疲れてるんだから当たり前だよね。だから、ごめん、またあとで電話するって言ったら、大丈夫って言われてしまった。そこから少し話してたんだけど。
『あの、伊都、バレンタインなんだけど……』
たぶんダメかなぁって思ってたんだ。あと少し、それを呪文のごとく唱えるくらいに忙しい卒業間近、平日で、ヘアーサロンに行くことにあらかじめ決っていた曜日丸かぶりだったから、まぁ無理だろうとは、予想していた。
いいよ。平気。けど、その週末は会おうよ。
『……うん』
だから、そんな切ない声なんて出さないで。
『ホント、ごめん』
謝ることじゃないじゃん。この前、二人でそう決めたんだから。無理は絶対にしない。今お互いにできることを無理なくやっていこうって。倒れたりしたら絶対にダメだからって。だから、バレンタイン当日なんかじゃなくていいじゃん。君とすごすバレンタインはこれからたくさん両手両足の指を使っても足りないくらいにあるんだから。
「……はぁぁ」
それにしたって、寝起きの、あの日向の声は破壊力すごすぎでしょ。で、その破壊力にやられた。バーン! って、ドーン! って、ザザー! って、感じ? もうボキャブラリーゼロになっちゃうよ。
『また……ね、伊都』
掠れた甘い声。
「はぁぁぁ……」
ここ最近で一番重たい溜め息を足元に吐いて、その場にしゃがみ込んだ。
ね、日向。二十歳になって、君の寝起きの声を耳に残したまま寝たら、夢精しちゃった。かなり恥ずかしいけど、ホント大失敗だけど、すごくカッコ悪いけど、でも、そのくらい君のこと――そう心の中で話しかけたら、脱水工程に入った洗濯機がガタガタと、夢精した二十歳の成人男子を笑うかのように振動した。
最近知ったこと。ヘアーサロンって案外年がら年中忙しい。成人式、卒業式、入学式、ハロウィン、それからクリスマス? あ、六月のジューンブライドとかも美容師さんには関係してくるイベントなのかな。むしろ、ハロウィン、クリスマスあたりが無関係? って、卒業式とか来月じゃん。じゃあ、その下準備とかで今も忙しい?
うわー……俺、そんな日向の大事な仮眠時間邪魔しちゃったのか。
「……」
そんで、夢精したのか。すげ……恥ずかしい。
「熱?」
「! ぁ、あー、違う、なんでもない」
顔、赤かった? いや、頭の中覗かれたら、この場で失神するくらいには恥ずかしいことを色々考えてたから、顔くらい赤くなるけど。
平原が笑って、隣の席に座った。
「今日の講義、俺、前回出てなくて」
「そうだったっけ?」
「うん。でさ、ここ、意味がわからないんだけど」
「あぁ、これは」
日向の字、好きなんだ。彼らしい柔らかさで、バランス綺麗で、すらすら書き連ねてく文字を眺めてるの、けっこう好きだった。
「そっかぁ! なるほど!」
日向とよく高校の時は一緒に勉強したっけ。それで日向の字を書くところに見惚れてると、「んもー! 伊都! ここ大事なとこ!」って叱るんだ。それがまた可愛くて。ちょっと叱られるのを待ってみたり。
「……いえいえ」
チョコ、渡したいな。ほら、疲れてる時はチョコとかの甘いものっていいだろ?
「伊都?」
チョコ、あげたいなぁって。きっと日向は職場でも、学校でもモテるだろう。女子人気かなり高いと思う。綺麗だし、モデルみたいにスレンダーだし、何より笑った顔がめちゃくちゃ可愛いし。だからきっとたくさんもらうことになるだろう。
「ううん。なんでもない」
大昔。父が睦月にチョコを買ってあげたいから一緒にデパートの地下に行こうって言ったことがあった。俺は睦月のことが大好きだったから、なんか楽しくてワクワクしながら向かったんだ。父は少し緊張して、戸惑っていた。きっと色々考えたんだと思う。睦月のこともそうだし、男で、父親で、それなのに、レジに並ぶっていうことに、少し足取りが重くなりがちで。
俺は買ってあげたくて、近くのショッピングモールのじゃなくて、ここで、買いたくって、帰ろうとする父を強引に引き止めたんだ。
試食したチョコはとても美味しかったけど、でも、まぁぶっちゃけ、子どもだった俺にとってはチョコはチョコでしかなくてさ。コンビニで買っても、きっととても美味しいって思ったと思う。
ただ、父の思いやりをやめにしたくなかった。
そして、俺も日向にチョコあげたいなぁって。
「今日は、帰りにちょっと寄るとこできたなぁって思っただけ」
「……」
日向の喜ぶ顔が見たいなぁって、そう思った。
「すみませーん! 最後尾こちらになりまぁぁす」
なるほど。
「限定チョコ残りわずかでーす!」
これは、たしかに、少しビビるかもしれない。うちの父はそれでなくてもふわふわしてる人だから、この戦場のような激戦区の中、どれにしようかなぁなんてチョコを選ぶことは不可能に近いと思う。思うけど――。
「よしっ」
俺は腕捲くりをした。
実際、ここの室温めちゃくちゃ高いと思う。チョコレート溶けちゃうんじゃないかなってくらい。けど、いざ、戦場へと、俺は歩を進める。
「す、すみません!」
君に甘い甘いチョコレートを食べて欲しいんだ。
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