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バレンタインSS 8 どんどん前へ、どんどん未来へ
「えー、それでは、次のレポート提出期限は……」
講師の告げる日にちを固唾を呑んで見守った。皆、心の中で、せめて十日の猶予を、って拝むような気持ちで。できたら二週間、いやいや、それは贅沢かもしれない。それならせめて一週間! みたいな祈りが教室を妙に静まり返らせる。
このレポートの期日にすごい熱量なのは、ほかの学科からの課題と提出期限が丸かぶりだから。
「期限は……十日」
その瞬間、教室そのものが安堵の溜め息をついたような気がした。そしてすぐに皆が十日の期日を元に逆算で他の教科との兼ね合いをし始める。
俺は、まぁ、大丈夫かな。差し迫った課題はとりあえず仕上げてあった、よね? ……うん、ある。大丈夫。そしたら、今出された課題だけだから、今週末の日向の新居探しを一緒に――。
「伊都!」
「平原」
廊下に出たところで呼び止められた。反対側の出口から出てきた平原だった。
「なぁ、お前、この前のテーピング理論の筋肉構成のやつ、もう終わった?」
テキストをバサバサと片手でまとめて持ちつつ、もう片方の手でテーピング理論の本を探してる。
「終わったよ。俺、それすごいやりたいやつだったから」
「そっかー、俺、全然わけわかんねぇ」
テーピング理論は自分の将来に繋がる教科だから最優先で終わらせてる。課題としてじゃなく、実際に使える知識として。だから実はばっちりなんだ。
「やべー」
「……ノート、貸そうか? けっこう書き込んでてすごい読みにくいかもだけど」
「あー、大丈夫。あ! あれ! いらねぇって意味じゃなくて、すっげぇ見たい! けど、大丈夫! の、大丈夫」
平原が自分の手元をごそごそと漁りながら、一人で答えて、一人でその答えにフォローを入れて、そしてまた、手元に視線を戻し、唸ってる。
「……髪、すごい切ったね」
「髪? あぁ、ぶっちゃけ体操やるのに邪魔だったから、思いきった」
「……」
「俺、体操、やりたいんだ。実は。あれよ? 体操選手とかじゃないから!」
また、一人で答えて、一人でその答えのフォローをしてる。
「俺さ、インストラクターとかやりたいんだよねぇ。話すの好きだし。けっこう子どもとか好きだし。そういう教室のインストラクター? っつうの?」
アハハって、笑って、ようやく取り出したのはどこかの体操クラブのパンフレットだった。そのパンフレットを抱えていた資料の一番上に置いて、視線を前へ、顔を上げる。
「伊都ってさ」
「……」
「すげぇもったいなくねぇ? …………って、思ってた」
口数はそんなに多いほうじゃない。けど、友だちがいないわけでもない。けっこう周囲には人が絶えない感じ。けど、女子とはどこか距離を置いてる気がした。なんでだ? って思ったけど、なるほど、ずっと付き合ってる子がいるのか。けど、別に女の子と話すくらいよくね? そこまで束縛される感じなわけ? つうか、どんな相手なんだ。
一切気配がない。皆、それなりに写真持ってたりするのに、そういうのも見たことは誰もない。
けど、誰かとこまめにやり取りをしているっぽい。きっとそれが「相手」なんだろう。
いることはいる。
けど、やっぱり姿はどこにも見えない。
「なんか不思議だなぁって思ってた」
「……」
「だって、付き合ってる子がいるにしては、あまりに女子を遠ざけるから、女嫌いなのかと思うだろ? けど、女の子が話しかけるとナチュラルに会話してるしさ。そんでもって、ムカつくくらいにモテてるしよ」
こっちをチラッと見て、俺が面白い顔をしてたのか。いきなり吹き出して笑われた。
「もったいなくねぇ? ってさ」
「……」
「思ってたんだけど」
何を思い出してるんだろう。平原が視線を前に向ける。前っていうか、そのずっと前のほう。そこに誰かがいるみたいにじっと見つめて、表情は柔らかく、そして、眩しそうに目を細めた。
「あぁ、なるほど。って思った」
「?」
「お前、好きな子の前だとあんなふうに笑うのな」
「!」
それは、日向のこと。笑ったのは、きっと日向に向けて笑ったところ。
「え? お前、バレてないつもりだった?」
「あ、いや、バレてるとか、バラさないとかあんまり意識したことない、けど、一言も俺、言って」
「はぁ? 見ればわかるっつうの!」
付き合ってる子はいると答えた。女性とも男性ともわからないようにそこだけは濁したけど、でも付き合ってる相手がいて、俺はその子のことがすごく好きだから、とは周りに話してる。俺は、隠すつもりはないんだ。
「えっと……」
「いいんじゃね? 別に。っつうか、あんな顔したお前見て、なんか言う奴いたら、そんな奴、縁切っとけ」
それはずいぶん乱暴というか、極端な気も、するけど。
「日向は……その、前に学校で、そのことで、いじめにあったんだ」
「……」
「だから、周りには……」
俺は気にしない。何を言われても、何があっても、日向を好きでいることに変わりはないし。ただ好きなだけだから。けど、わからないから。俺に何か感情を言葉を向けられるだけならいいけど、そこはわからない。どこかで捻れて、日向に向かないとは言い切れない。俺は、日向を、守りたい。
「言わねぇよ。言わない」
一度目の答えは俺に、二度目の答えは、まるで、日向に言ってるみたいだった。優しい声で、でもはっきりときっぱりと。
「むしろ、うらやましかった」
「……」
「あと、まぁ、ある意味、もったいないわなって思った」
「?」
「あんな顔、お互いにできる相手なんて、手放したらもったいないだろ? そりゃ、女の子、シャットアウトするわ。そんなことで手放したくねぇじゃん」
「え、あのっ」
そうじゃないんだけど。別にそれだけの理由で女の子を遠ざけてたんじゃなくて、俺が日向に会いたくなるから、ってだけで、日向は女の子のことなんて気に……あ、イヤだって、言ってたっけ。ヤキモチしてくれるんだった。
「っぷ、すげ、照れたりすんのな」
「ち、ちがっ!」
「あはは、おもしれぇ。けど、まぁ、そう、うらやましかった」
「……」
廊下は窓を閉め切っている。それなのに風が吹いてる気がした。
「だから、俺も、あんな顔ができる奴になりたいって、思った」
前のほうから爽やかで清清しい風が。
「彼女は……まぁ今どうにかできることじゃないから置いといて、とりあえずはおべんきょーを頑張ろうかなってな」
平原に向かって風が。
「そんじゃぁな! 白崎、だっけ? 宜しく言っといて!」
「……」
とりあえず筋肉構造から勉強しないとだわって笑って、廊下を曲がった。資料室がある別棟へと。一人でたくさんしゃべって、一人で楽しそうに、歩いていった。
「インストラクター……かぁ」
睦月に訊いてみよう。インストラクターに大事なこととは、って。何か参考になることがあるかもしれない。
「……頑張れ。そんで、俺も頑張れ」
日向も、頑張ってるから。もうすぐ来る春に向けて、それぞれの未来のために、一人ずつ、そんで、皆で、俺は日向と一緒に、どんどん前へ――。
そのあと、睦月に訊いてみた。
「インストラクターに大事なこと? 相手をしっかりと見て、相手の話をしっかり聞く、それができればそれぞれに合わせた良いレクチャーができるよ」
「……」
「伊都? なんで、そんなお前が落ち込んでるんだ?」
だって、それ、平原にはかなり、難しそうだったから。
――俺、体操、やりたいんだ。実は。あ! あれ! 体操選手とかじゃないから!
そう言っていた平原が少し心配だけれど、でも。
――お前、好きな子の前だとあんなふうに笑うのな。
でも、相手をしっかりと見る、はできるのかも、しれない。うん。
「頑張れ、平原」
そう、大学の友だちへエールを心の中から送った。
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