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一人暮らし初夜編 1 春よ、恋、来い

 春の歌をいくつも口ずさんでた。春よ来い来い、春よ、来いって。自分の勉学なんてそっちのけにしたくなるくらい。いや、それは、ダメなんだけど。二年生の総まとめレポートに実技試験、それと初夏にある水泳の大会。あれこれ、やらないといけないことがあって、俺は俺で忙しくて。日々、そういったものに追われる春なんだけど。でも、頭の中は。  春よ来い来い、春よ、来い。  そんな感じ。だってさ、だって――。 『なんて挨拶したらいいのかわからなくてね? とりあえず、行ってきますって言ったんだ』 「うん」 『そしたら、お母さんが笑ってた』 「うん」 『あ、あと、お母さんが、おにぎり鮭でいいの? だって。あと昆布と梅干、シーチキン』  ちょっと、多くないかな。あ、でも、日向のお母さん、華奢な人だからおにぎり小さいのかも。 「うん。ありがとう。お昼楽しみだ」  どのおにぎりも日向が好きなものなのかな。鮭と昆布と梅干にシーチキン。おかかはあんまり、なの? ベストフォーには入れてもらえなかったっぽい。 「ね、日向、明日、七時でいいの? 本当に?」 『うん。大丈夫だよ。っていうか、伊都、本当に平気、なの?』 「大丈夫! めちゃくちゃ大丈夫!」 『けど、先週レポートいっぱいなかった? それにそろそろ夏の大会の準備とかあるでしょ? 身体作りとか……あるよね?』 「やだ」 『え?』 「やだ、絶対に手伝う」 『……うん。嬉しい。ありがと』  噛み締めるように君が言った。電話越しで顔見てないのに、声だけでわかっちゃうくらいに微笑んで、君がうなずいてくれた。 「うん」  俺もなんか嬉しくて、なんか、顔がふにゃふにゃで、うなずくくらいしかできなくて。 『……』 「……」  電話なのに、何も話さないちょっとの時間。ほんの数秒間、きっと二人とも笑ってた。ワクワクして、ドキドキして、明日が、明日からの新しい生活が楽しみで。 『っご、ごめんねっ! 朝からお願いするのに、夜更かしになっちゃう』 「平気だって。日向こそ」 『……うん』 「それじゃあ……」  いつもはさ。  いつもはここで「バイバイ」って言ったり、「またね」って言ったりする。お互いに忙しいから。でも今日は違う。いや、今日から、違う、かな。 「また、明日」 『っうん! また、明日』 「おやすみ」 『おやすみなさい』  二人して少し笑った。だってこれじゃ、いつまでたっても電話が切れそうにないから。またね、明日ね、って、さっき言ったことをまた繰り返して、そして、電話を切ったんだ。 「……また、明日……日向」  電話を切っても切なくならなかった。ただ、早く明日になって欲しいって思った。だってさ、だって――明日、日向が一人暮らしを始めるから。  高校を卒業して以来、「また明日」それを言えるのは、飛び切り嬉しい事になった。 「……嘘、でしょ」  七時集合。現在の時刻、六時四十分。  それぞれの生活が別々の場所にあったから、会える日はすごく減って、会えても、バイバイをしたら、またすぐに会いたくなるほど、日向不足だった。愛しいのと恋しいのと寂しいのと、頑張れ、って感じの毎日だった。  昨日までは。  これからは、ってところを考えたら、ワクワクしてきてさ。 「うわああああ! 嘘、でしょ! やばい! やばい! 父さんに頼んでっ」  ワクワクしすぎて、まさかの寝坊だよ。オーマイガ! だよ。本当に。 「あと、えっと、歯磨き」  なんで。 「あ、着替えは、今日って暑い? あー、けど、めっちゃ動くからいいか」  なんで今日に限って寝坊。 「っていうか、着替え……」  それは、いる、でしょ。いや、泊まるとか、日向に言ってないし、そもそも引越し初日に泊めてもらえるのかっていうのもあるし。けど、でもさ、ほら、めちゃくちゃ働くから。今日の俺は引越し屋さん、でしょ? だから、着替えくらい持ってくでしょ? 別に、そこは、あの、期待してとかじゃなくて。 「も、持ってくだけ、だし。うん……うん、別に、って、やばいんだって! 時間が!」  今現在六時四十五分。 「おとおおおおおおさあああん!」  集合時間、十五分前。 「うわ……そういう風に呼ばれるの懐かしいぃ」 「ちょ、懐かしんでないでよ! って、あの、本当に申し訳ないんだけどっ」 「はいはい」  父さんがふわりと穏やかに笑って、いつもは玄関先にぶら下げてある車のキーをポケットの中から出して見せてくれた。カーボーイのピストルみたいに、指先でクルリと回して、ちょっと笑って、首を傾げる。 「どっちにしても、日向君のご両親に挨拶しないとでしょ?」 「!」  まだ、そういう行事めいたことはしてない。そういう、ご両家挨拶みたいなの。うちも、日向のご両親も、のんびりしてるのかな。すごくゆったりと見守られてる。ちょっと離れたところから、でも、すごく近いところから、小さいけれど大きな声援をたくさん、もらってる感じ。 「ほらほら、歯を磨いて顔洗って。睦月と待っててあげるから、急いで急いで」 「あ、ありがとっ」  睦月が玄関のところでやれやれって顔して笑ってた。  そんな睦月にもお礼を言って、歯磨き洗顔、髪は……切ったばっかだから、ワックスなしで大丈夫。服は……いや、まだダサい家着のままだった。着替えて、それと着替えを、ちょっとにやけつつ、鞄の中に突っ込んで。 「ごめん!」  うちを出たのは六時五十分。  うちと日向のうちは駅四つ分離れてる。すごく広い歩道に花水木の街路樹、それを見ると「あぁ日向んちの近くだなぁ」って思うんだ。  あ、ほら、ここのコンビニで俺はお茶を、日向は喉が渇いてるのにコンポタ買ったんだ。走って、気がついたらここまで来てて、日向が偶然通りかかった。  運命だったりして。  そんなのわからないし、結果論でしかないけれど。でも、俺の初恋は日向で、俺の初恋は今もずっと続いてる。実って、膨らんで果実になって、種になって芽が出て、木になる。  今はちょうど、芽が出た感じ、かな。だって、日向は新しい場所で新しい生活を始めるから。 「日向! ごめん! 遅くなった」 「! 伊都」  俺は、そんな君の隣に座ってみたり、手伝ってみたり、笑ってみたり。 「いつも伊都がお世話になっております。父です。それと……」  父さんが睦月と並んで挨拶をした。 「こちらこそ、いつもお世話になっているんです。千佳志さんと睦月さん。お話だけは日向からたくさん伺っています。お会いできて感激です」  日向のご両親が笑顔だった。  三月の終わりはまだちょっとだけ寒い、朝、七時ちょっとすぎ。 「おはよ、伊都」  日向の新しい生活が始まる。俺は、その隣で、君と「おはよう」って朝の挨拶を交わした。

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