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夏風邪編 1 水遊び

「うわぁ……」  思わず、そう呟いて、屋根からほんの少しだけ顔を覗かせた。ただそれだけでも雨が容赦なく顔を濡らすくらいの大雨。  今日って夕立の予報出てたっけ?  見てないや。課題の締め切りが今日までで、お天気予報までは気にしてなかった。  シュークリーム買って帰りたかったんだけどなぁ。日向が美味しいって頬をピンクにして食べてるとこを見たかったのに。明日、日向は休みだったから、夜に一緒に食べたかった。それで、翌日、俺は大学あるけど、課題全部終わらせてるから、午後、夕方前くらいから一緒にデートして、夜はどこか外で食べて、ってしようと思ってたんだけど。そんなイイ感じの今夜と明日のプランを考えてたんだけど。けど、出だしで躓いたなぁ。  これじゃ、買っても持ち帰るのは難しそうだ。 「んー……」  早く、帰りたいんだけどなぁ。  今日、日向は早番なんだ。朝、着付けとヘアメイクの仕事が入ってて、すっごい早くに出ていっちゃったからさ。「おはよう」ができなかった。 「いってらっしゃい」のキスも……できなくて、ちょっと元気があんま出ないかな。  だって、まだ、一緒に暮らし始めて数ヶ月だよ?  日向の寝顔を見て、ニコニコしちゃってるくらいなんだ。  あ……でも、どうだろ。  それは一緒に暮らし始めたばっかだからってわけでもないかも。  父さんと睦月はいまだに朝からニコニコしちゃってるからさ。父さんの寝癖を見ては睦月が嬉しそうに頭を撫でて、頭を撫でられた父さんが今度はすごく嬉しそうで。  けど、一緒に暮らして何年目なんだっけ? 今、俺が十九で、あの時が……。 「……よし」  とにかくさ、つまりはそういうこと。つまりはその計算をするよりも、とにかく日向に早く会いたいんだ。  必死に頑張ったレポートはもうすでに提出済み。スマホは、ぁ、やばい。ズボンのポケットだ。それを鞄の中、雨が染み込まないよう奥のとこに押し込んで、あとは、大丈夫。ちょうどいい感じに今日はサンダルだ。  駅からうちまで歩いて十分。走ったら、たぶん、俺なら五分、かな。六分台はないと思う。  だから、ぴょーんって、飛び出した。 「うわっ、すごっ」  飛び出したら最後、もう気にならないよ。  常日頃、夏も冬も、春も、秋も、プールで泳いでばっかの俺は濡れるのとか全然気にならないから、もう、濡れちゃえばさ。 「あははっ」  濡れるのが楽しくなってくる。パシャパシャ、バシャバシャ、サンダルであえて水遊びを楽しむ子どもみたいに、足を大きく一歩前に踏み出してみたりして。 「わっ……伊都」  だから、ちょっと恥ずかしかった。 「ぁ、日向……」  君に見られちゃった。水遊びしてたとこを。  歩いて十分の距離、この大雨に傘を持って来てくれた。なのに、ごめんね。 「びしょ濡れだよ?」  うん。びっちょんこになっちゃった。  傘を差さずにこの土砂降りの中を歩いてるのは俺だけ。ましてや、スキップしそうなくらいに音を立ててるのなんて、ホント、俺か。 「ぎゃはははは、長靴ン中にプールできた」  横を通り過ぎた、合羽は着ているのに、フードは被ってないから頭はびしょ濡れ、手には閉じたままの傘を持ったヤンチャな坊主頭の小学生くらい。  その小学生が通り過ぎていくのを日向がポカンと眺めて、ハッとして、慌てて俺に傘をくれた。 「ご、ごめん」 「ううん。いいよ、もう濡れてるし」 「もう一本遅い電車だと思ったんだ。学校を出る時に連絡くれたでしょ? 今から帰りますって」  うん。君がもううちにいたら、ほら、ここの駅前のさ、シュークリーム買って帰ろうと思ったんだ。一緒に食べようよって。雨がすごくて買わなかったけれど。 「だから、次の電車に合わせて」 「うん」  乗り継ぎが上手にいけたんだよ。電車がさ、早く日向のとこに帰りなさいって言ってくれてるみたいに、電車を降りて隣のホームへ行ったら、ちょうどもう少しで発射するベルが鳴ったから。ひょいって、乗ったんだ。 「おかえりなさい、伊都」  おはよう、が言えなかった分、いってらっしゃいのキスができなかった分、今、普段よりも早く。 「ただいま、日向」  そう君に言えた。  まさにバケツをひっくり返したような雨のせいでいつもよりも時間のかかった帰り道の間、止むことなく、そのまま空でひっくり返ったバケツからはじゃばじゃばに水が落っこちてきていた。 「ふぅ」 「雨、全然止まなそうだね。あ、伊都、そこで待ってて、今、タオルを」  アパートの廊下には点々どころか、水の怪獣でも歩いたみたいな雨の痕がエントランスから我が家まで続いてた。 「うん、ありがと」  これじゃ部屋には上がれそうもない。とりあえず鞄を足元に置いて、Tシャツを脱ぐとびしゃりとまた水が。 「うわ、ごめん、日向、洗濯カゴ取ってもらってもいい?」  これじゃ、洗濯機まで持って行く間に部屋が濡れちゃう。だから洗濯カゴの中に入れて運ぼうと。 「……日向?」 「! っ……ぁ、えっと、洗濯、カゴ?」  足元のびしょ濡れになった床を見つめてたんだ。洗濯カゴを頼んだのに日向が返事をしなかったから、どうかした? って、顔を上げたんだけど。そしたら日向が。 「あ、ご、めんっ、待ってて」  日向が俺を見つめてた。 「日向……」 「っ」  気のせいかな。  君の瞳が濡れてる気がした。  潤んで頬が赤くて、熱っぽくて。 「っ」  気のせい、じゃないといいな。 「日向?」 「っ、は、早く拭かないとっ風邪」」  君が俺の裸を見て、ちょっとでも、ドキドキしてくれていたらいいなぁって、そう思いながら、その白く細い手首を掴んで捕まえた。 「ンっ……伊、都」  君のことが大好きで、常日頃、夏も冬も、春も、秋も、いつだって、君にこうして触れていたいって思っている俺は、君を捕まえて、引き寄せて、答えてくれるかも、なんて期待を込めて、そっとキスをした。

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