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夏のヤキモチは美味しいです。編 1 への字の伊都くん
君を信じてないわけじゃないんだ。
でも、彼氏なんだから気になるよ。
好き、なんだから。
今日って、猛暑通り越して酷暑って言ってたっけ。
でも酷暑じゃない日の方が少ない気がするけど。
講義を終えて外に出ると、アスファルトを日差し、なんて生易しいものじゃない、強力なビームが照らして、その分真っ黒な色をした自分の影が真下、足元にいた。
ここのところ暑さが本当に酷いから。
「あっつーい! 溶ける」
同じタイミングで出てきた女子はその陽射しにぎゅっと顔をしかめながら慌ただしく日傘を太陽に向けて開いた。
その子の後を追うようにもう一人女子が走ってやってきて。
「もう、ホントさぁ」
「いーじゃん。喧嘩するほど的なやつでしょ」
「いやいや」
そんな会話をしながら、そのビーム光線に照らされ続けるアスファルトの中を傘で防御しながら歩いていった。
「……」
喧嘩するほど、的なやつ、かぁ。
俺たちはあんまり、かな。喧嘩ほとんどしないから。でも――。
――大丈夫だから! 平気! 駅待ち合わせにしたい!
あんな頑なに言われたら、さ。
「お、めっずらしー」
「……平原」
「おつかれ。伊都」
平原が着替えをしてきたのか、Tシャツを片手に持ちながら現れた。
「何? 珍しいって」
「んー?」
言いながら口の端を指でグイッと押し下げた。
「口、への字になってるからさ」
「……これは、別に」
そんなに顔に出てた? 平原が笑っちゃうくらい? 口がへの字に曲がって、膨れっ面になってた?
「白崎さんとなんかあった?」
「……喧嘩、した、かな」
「かな? なんだそれ」
わからない。日向はもう大丈夫の一点張りで他は何も話さなかったし、その後、多分職場からなんだろう電話が来て慌てるように部屋を後にしちゃったから。
で、その後は、最近の暑さと連日の実習にヘトヘトで俺は寝落ちして。気がついたら朝で。日向は早番だからなのか、顔を合わせたくなかったのか、俺が起きた時にはもう仕事に出た後だった。
で、俺の口は朝からへの字に曲がった。
「ふーん、お前でも喧嘩とかするんだ」
「だから、わからないって」
「喧嘩してるかどうかわからないってこと?」
「……」
「まぁ、色々あるわな。長いだろ? 高校からなんてさ」
「別に……長いとか考えたことない」
「お前、物持ちいいもんなぁ」
「日向は物じゃない」
「わーかってるよ。そういう意味じゃなくて、いつまでも物でも人でも気持ちでも、同じように大事にできるってこと」
「……」
そう言って、平原が俺のリュックを指差した。もうずっと、大昔から使っているリュックは丁寧に大事に使ってはいるけれど、でも、やっぱり近くで見れば年季が入ってるのはわかるから。そして、俺の名札を指で、まるで風鈴みたいに揺らすと小さく笑った。
「そうやって大事にされてると相手はさ、人でも物で、ずっと嬉しいと思うよ」
「……」
名札には少し幼い文字でITOって書いてある。覚えたてだから、Oが不格好で、ただ丸みたい。
「白崎さんだって、そうっしょ」
「……」
「んで? ちなみに原因は?」
「……言わない」
「いーじゃん。相談しろって。白崎さんのことも知ってるしさ」
「……たいしたことじゃないよ」
「えー? たいしたことないわりに顔、ほら」
そう言いながら、への字が一向になおらない口を見て笑われた。
ただ、さ。
ただ、隠されたら見たくなるだろ?
知りたくなるだろ?
どんな大事なものなんだろうって。そんなに誰にも取られたくないものなのかなって。
言いかけたところで、やっぱりなんでもないって言われたら、何をしてでも聞き出したくなる。
気になるよ。
だから……。
――しばらくひとりで帰れるし。
そんなの急に言われたら、さ。
何かあったのかなって思うだろ?
遅番の時は最近迎えに行ってた。最初は日向の仕事してるお店の近くに好きなトレーニングウエアの専門店ができて、ちょうどいいから見に行って、それから日向の迎えに行ってた。それがそのうち、日向を迎えに行くのがメインになって。大学生の俺の方が暇だし、それに何より、日向と一緒に帰るのが楽しかったから。
だけど突然、迎えに来なくていいって。
大丈夫だからって。
急に言われて、なんでだろうとなるでしょ。
しばらくって、何?
―――伊都だって忙しいでしょ?
忙しくないよ。日向のほうがよっぽど忙しいじゃん。仕事しながら勉強もして、最近、色々任されるようになってきたって嬉しそうにしてた。アシスタントとして新人スタッフをつけてもらえて、毎日ちょっと緊張するって話してた。
応援してる。
でも、たまに思うよ。
「最近」
「うんうん」
大学生の自分と、仕事をしている日向。スタッフをつけてもらえて、色んな人と接して、上司とかもいて。まだ学生の俺には実感のない「社会」の中にいるんだっていうのを。
「迎えに行って、一緒に帰ってたんだけど、それしばらくしなくていいからって言われただけ」
「…………」
「だから」
「っぷ、あはははははは」
「ちょ! 平原!」
「いや、だって、そんなへの字だから何かと思うじゃん。っぷ、あははは」
「平原に話したのがバカだった」
「なんだよ。失礼だなぁ。だって、そもそも一緒に帰るって、お前んちと大学と白崎さんの勤め先じゃ全然方向違うじゃん。すっげぇ遠回りじゃん。だからっしょ」
「けどっ」
電話一つ取ってみたってさ。
――お、お疲れ様です。はい。えっと、それはちょっと、あの……やっぱり。
俺は電話で「お疲れ様です」なんて言うことはほとんどなくて、けど、「社会人」なら当たり前の挨拶で。
俺は学生だから。
些細なこと。
でも、俺にとってはすごく距離を感じてさ。
「白崎さん優しいから気を遣ってんだろ。最近暑いし、夏バテさせたら大変だ、とかさ」
「……」
「会いたいから来てるだけだよーっつって、ラブラブで一件落着っしょ」
君を信じてないわけじゃないんだ。
「まぁ、とりあえずへの字の伊都は珍しいから、面白いけど」
「面白くない」
「らしくないから」
「……」
でも、彼氏なんだから気になるよ。
「早くなおしとけよー。じゃーな」
好き、なんだから。
「…………なおしとけって、言われても」
気になってしょうがないんだ。
「……日向?」
平原が去ったとほとんど同時。日向からスマホにメッセージが届いた。
―― ごめんなさい。今日ちょっと帰りか遅くなります!
そんなメッセージだった。
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