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第7話 笑顔
薄いピンク色の頬は猫の鼻先みたいな色。可愛い、色。可愛い――って、同じ歳の男子高校生にはあまり使わない単語だから、ぎゅっと喉奥にその言葉を押しこめる。
「白崎は寒くない?」
「あ、もう走る?」
首を横に振って、またお茶を口にした。
「っていうか、また四駅分なんて走るの? あ、もしかして、体力作り? 水泳、冬はできないもんね」
「俺が水泳やってるって、よく知ってたね」
「そっ、それは! えっと、その、佐伯君って有名人だから」
「体力作りっていうか、ストレス発散。っていうか、俺って、なんか有名なの?」
「有名っていうか、女子が……」
俺より十センチくらい? 背の低い白崎が俯くと、まるで押してくださいといわんばかりのつむじがそこにある。押してみたいなぁなんて思ってみたりしつつ。でもさすがに、昨日始めて話した奴のつむじは押さないよなって考えて堪えた。
「テスト期間中はプールで泳ぐの禁止されてるんだ」
泳ぐとやっぱり疲れるわけで、そうするとテスト勉強がままならない。うっつらうっつら勉強してても仕方がないって、睦月にその期間は泳がないようにって言われていた。
「だから、ストレス発散で四駅も?」
「まぁ、そんなとこかな。ほぼ毎日泳いでるから」
「毎日? すごい」
睦月もたまに練習に付き合ってくれるけど、毎回じゃない。ずっと同じスイミングのところで、歳は高校生だけど、でも、もうあそこじゃかなりの古株だ。勝手知ったる自分の庭って感じ。
「俺も、佐伯君みたいに泳げたら楽しいんだろうなって思う。前の学校は水泳厳しくなかったから、それこそ二十五、とりあえずなんでもいいから泳げたら平気だったんだけど。うち、厳しいもんね」
そう、うちの学校は厳しかった。クロールと平泳ぎを五十ずつ、しかもメドレーで止まることなく、トータルで百メートル泳ぎきるのが最低条件。そのレベルを卒業までにできないといけなくて、三年になってできそうもない奴らは受験だってある夏に、水泳っていういらない課題のオマケつきになるため、皆必死だった。
「俺もそうだったよ」
「え? 佐伯君が?」
「うん。小学校一年まで完全なカナヅチ」
「ウソみたい」
「ホントホント」
また目を丸くして、眉をあげてびっくりしている。
「泳げたらって思うんなら」
真っ赤な頬、瑞々しい唇って、なんで、そんなじっくり俺は観察なんてしてんだ。
「今度、教えてあげようか」
「え? でも、邪魔になるんじゃ」
なんで、そんなこと言い出すんだ、俺。
「へーき。大丈夫だよ」
「……」
「平気だよ」
本当は、自分自身にすごく戸惑ってるけど、でも、笑ってそんなことを言っていた。本当に教えるよって、思っていた。
頷くとは思ってなかったんだ。でも、たしかに二十五がせいぜいじゃ後々大変だろうし。でも、まさかさ。
「おかえり。伊都、どこのポストまで行ってた?」
プール、四日からやってるって、睦月から聞いてる。レッスン後の時間、一時間だけだけど、泳ぎに使わせてもらえるから、そこで教えてあげるって言ったけど。
「帰りが遅いから心配しちゃっただろう? 明日、実家に行くけど」
――うん。あの、本当にお願いしてもいい?
上目遣いでそう尋ねられ、俺は白崎のコーチになった。
「……ただいま」
「伊都?」
大晦日までは、こんな展開思いもしなかった。白崎は隣のクラスの転校生で、俺との接点なんてひとつもなかったのに。
――本当にお願いできるなら、今度ちゃんとレッスン代払うからっ!
たったの一日で俺は白崎の専属コーチになっていた。
「おーい、伊都?」
――是非、宜しくお願いします。
そう言って白崎が笑った頃にはもうどっぷり夜空で、また、その薄ピンク色をした唇の周りに甘い綿飴みたいな吐息がふわりふわりと浮き上がっては消えていた。
「うわぁぁ。ちょっと見ない間に大きくなったねぇ」
お正月、睦月と三人でお父さんの実家に行くと、大概、いつだって元気そうなおばさんのこの一言が「明けましておめでとうございます」よりも先にやってくる。
「お母さん、これお土産」
「あらぁ、睦月さん。いつもありがとうございます」
「あと、お年玉」
おじいちゃん、おばあちゃんへ毎年恒例のお年玉配りを終えた睦月がようやくコタツの中に足を入れた。俺はもちろんすでにコタツの中で温まってる。
「あ、お母さん、上の食器、俺が取りますよ」
「あらぁ」
ようやくって思ったらまたコタツを出て、キッチンへ手伝いに行ってしまった。おばあちゃんの手伝いをする睦月はもうすでに馴染んでるけど、最初の頃は……いや、もうなんか馴染んでたかも。
ゲイ、っていうか、お父さんの好きになった人が男の人だった、っていうことをおじいちゃんたちは受け入れてくれた。差別は、ここにはなかった。
「伊都はもう身長、クラスで一番?」
「うー、うん。そう、かな」
「もう高校生だもんねぇ。あんなに小さかった伊都が!」
お父さんの家族の中で睦月とのことを一番に知ったのはおばさんだった。きっかけは俺。俺が四六時中、睦月のことを話していたから、なんとなくわかったらしい。一生懸命に睦月のことを話す俺を見て、同性だとか言う気にはならなかったって、のちのち言われた。
「モテるでしょおおお!」
「それが全然。伊都ってば、一度も彼女をうちに呼んだことないんだ」
「えっ! ウソっ!」
「お父さん! 言わなくていいって」
お茶を飲みながら肩を竦めて、そして、これは面倒だとそそくさとコタツの中からお父さんも抜け出して、睦月とお母さんのいるキッチンへ行ってしまう。
「なんでなんで! モテるでしょうに!」
ほら、おばさんがグイグイ来たじゃん。世話焼くの大好きだから、ホントそのうち、花嫁候補を一緒に探してあげるとか言われそうなんだけど。
「モテ、ないよ」
「ホントにぃ?」
モテるかどうかは別にいいんだ。告白されることが多くたってさ。
「彼女いないの?」
「……いない、かな」
あんなふうに、お父さんと睦月みたいに想い合える恋愛ができるかどうかは別の話だからさ。
「んもおおおお! 花のDKがもったいない!」
「DKって……」
あんな恋だから、おじいちゃんもおばあちゃんも、おばさんも、俺だって、同性とか気にならなかった。ただ、素敵だなって思った。お互いに笑顔が優しくて、触れたら温かいだろうなっていう恋。笑顔が――
「んじゃあ! 好きな子は?」
――また、そしたら、プールで。佐伯君。
笑顔が優しい。
「あれ? もしかしてっ?」
「なっ、ないってば! ないから!」
その時、浮かんだ笑顔と澄んだ明るい声は、白い吐息に包まれていた。
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