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第8話 これはただの人助けで

 新年の挨拶を全て終えて、実家へ戻ってすぐ睦月に頼んだ。プールを使わせて欲しいんだって。 「プールを?」  睦月はきょとんとしてた。 「ダメ?」 「ダメじゃないけど」  もうあそこのスイミングに通って長いし、多少のワガママなら聞いてくれる。スイミング部門の部長をしているのが睦月だからっていうのもあるし、俺もあのクラブのメンバーで、その看板背負って大会でけっこういい成績出せてるから。  ちょっと間を置いて、それから、俺の顔を見て、クシャッと笑う。いつもここでお父さんに「睦月は伊都に甘いんだから」って小言を言われるけど、今はちょうどいないから。  玲緒じゃなくて、競泳関係じゃなくて、ただの同級生。泳げないで困っているから水泳を教えてあげたいんだと話したら、ちょっと戸惑って、でも、いいよ、って言ってくれた。  別にやましい事があるわけじゃない。おばさんが勘ぐるようなこともない。もちろん睦月が心配するようなことだってない。ホント、ただの同級生で、初詣でたまたま話して、二度目もたまたま遭遇して。お金借りたし。まだ転校してきたばっかで戸惑うこともあるだろうし。慣れない環境で友達もそうたくさんいるわけじゃないみたいだし。  それに本当にうちの学校の水泳は厳しいから。だから、泳げないんじゃ困るだろうからってだけ。 「白崎!」  そう、これは人助け。 「待った?」  もうすでに待っていた白崎の元へマウンテンバイクを走らせ、すぐ近くで降りた。この前はスマホを持ってなかったから、連絡先とかわからなかったから。スイミングの前で待ち合わせたんだ。時間決めてさ。だから一月の外で待っていてくれた白崎はかなり寒かったと思う。けれど、頬をピンク色に染めて、大丈夫だと呟いて、ブンブンと頭を振る。長い前髪がまるで準備体操でもするように左右に揺れた。 「あ、あのさ、本当にいいの? その、ここってスイミングスクールだよね? 俺、てっきり市営のとこかと」 「俺、ここのメンバーなんだ。そんで、うちの親がここで働いててコーチしててさ。市営じゃ人いるだろ? 泳ぎの練習するのにイヤかなぁって思うし。融通利くからさ」 「……コーチ、あの、お父さんが?」 「あー、まぁ、そんなとこ」  隠すことはしない。けど、言いふらすことでもないから、なんとなくサラッと答え、自転車の鍵をズボンのポケットに突っ込んだ。 「でも、あの、それだったら、尚更、部外者の俺がここ使ったりしたら」 「平気。許可もらってるし、それに今から俺の練習時間だったから」 「佐伯君の?」 「そ。メンバーって、言っただろ?」  ずっとピンク色の頬をもっと染めて、すごいね、なんて呟く白崎に、ちょっと気恥ずかしいさと自慢っていうか、誇らしいっていうか、褒められて素直に喜ぶ自分がやたらとガキくさく感じられて、思わず俯いた。 「ここじゃ寒いから」  普段は何も思わない。水泳の選手でそれなりの成績を出せてるけど、でもだから「どうだよ」なんて自慢したり、鼻高々になることもない。なのに、なんでか、白崎の感嘆の声に反応する自分がいた。  階段を上がって扉を開けるとすぐに受付がある。その横には大きなガラス窓。窓の向こうには五十メートルプールが設置されている。いつもここで泳ぐんだ。 「うわぁ、すごい。ね、誰もいないけど」 「あー、そうみたいだね。普段ならちらほらいるんだ。ここのスポーツクラブの競泳選手が。でも今日は正月でいないみたいだ」  スイミングレッスンとは違う。なんていうんだろう。競泳強化選手みたいな感じ。元は生徒だったり、ここのスイミングのスタッフだったり。レッスンを受けるっていうよりかはレッスン終了後に、おのおのでトレーニングをする感じ。スイミング部の部長をしている睦月もそうやって練習をして大会に出てた。もう現役は引退して、のんびりと体型維持のために泳いでる感じだけど。 「そう……なんだ。なんか、佐伯君、すごいね」 「……」  顔、熱くなる。すごいとか、カッコいいとか、そういうの本当にいつもなら気にしないのに。 「おや、伊都君、こんばんは」 「こんばんは」  中に入ると施設管理を担当してくれている年配のスタッフさんがちょうどいた。もう長い付き合いになるその人は俺を見てにこやかに笑ってから、老眼鏡をずらし、俺の斜め隣にいる白崎をじっと見つめる。 「今日は……新しい選手の子?」 「あ、違うんだ。俺の同級生。もう許可はもらってます」 「そうだったのかい」  それで納得がいったのか、彼はまた自分の仕事へと戻っていった。今日は本当に空いてるらしい。彼以外には誰とも遭遇していない。 「あっちが更衣室」 「あ、うん……あの」 「?」  いきなり白崎がぴたっと止まった。先を歩いて案内していた俺は振り返って、目が合うと、まだ頬をピンク色にした白崎が困った顔をしてた。 「どうかした?」 「あの……俺、すごいもやし体型なんだけど」 「……」 「その、佐伯君みたいにカッコよくないけど、笑わないでく、」  何を言うのかと思ったじゃん。 「……っぷ、あはははははっ」 「ちょ! 佐伯君!」 「だって」 「笑わないでくれって言いたかったのに、笑ってるしっ」 「だって、白崎、俺はてっきり、ぷくくく」  ピンクじゃなくて真っ赤になった頬。怒った顔をしてるけど、ちっとも怖くなくて。 「てっきりなんだよっ」 「俺、水着忘れたのかと。もしくは、水着着てきたから、パンツを忘れたのかと」 「んなっ! そんなの忘れたりしないっ」  怖いどころか、俺は、ムキになって怒る白崎がおかしくて笑ってしまった。 「もう、そんなに笑うことないだろ」 「ごめんごめん。いや、別に体格なんて」 「あのなっ、そういうのはカッコいい身体してる奴だから言えるんだ。俺みたいなモヤシ体型がそんなこと言ったって」  笑いながら更衣室に入った。本当に今日は誰もいない。更衣室も静まり返っていて、俺たちの笑い声がやたらと響いている。それと、白崎のぶつくさ文句を言う声。怒っているのに澄んだ優しい声をしているから、迫力なんてこれっぽっちもなくて、逆に可愛いく思えるくらいで。 「別に体格なんて、俺は気にしないけどな」 「だからっ、それはっ、身長あって、カッコいい体格の、さえ、き……くんが」  そう、本当に関係ないよ。身体つきとか、そんなの、俺自身自慢に思ったことなんてないし、だから、白崎だって。 「ほ、ほら、カッコいい、じゃん」 「……」  気にしないってば、そう言うつもりだったんだ。白崎がモヤシ体型でも、マッチ棒でも、なんでも別にかまわないって言うつもりだった。 「やっぱり……佐伯君はカッコいいだろ」  でも、言葉が出てこなかった。直視できなかった白い肌に頭の中に合った、次に言うはずの言葉が一瞬で吹き飛んだんだ。

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