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第9話 青い水

 白い肌、外に出てるところだけでもあんなに白かったんだ。そりゃ、服で隠れるところも白いはずだけど、でも、その白は眩しくて、モヤシ体型とか気にしないって言ってたはずなのに、直視できなかった。  驚いたんだ。  そう、単純に驚いた。競泳のプールで会う選手は皆が俺と似たような体格に、似たような日焼けした肌。たまに室内でしか泳がないって選手もいるけど、白崎ほどの色白なんていなくて。ここまで白い人はいないから、だから、びっくりしただけ。別に、それだけ。  でも、その白い肌だって水の中に入っちゃえば、わからなくなる。だから、準備運動の間は背を向けて、あまりそっちを見ないように気をつけながら、済ませてしまった。 「水の中には、いられる?」  白い肌が珍しかっただけ。この直視できない白い肌を避けるように、準備運動を終えるとすぐにプールの中へ先に入った。 「え、うん。それは大丈夫」 「そっか。じゃあ、水は怖くない?」 「大丈夫」  久しぶりの水の中は気持ちがよくて、目を瞑り、手を伸ばし、浮き身になった。本当はやっちゃいけないんだけど、今は俺ら以外いないから大丈夫。一度浸水して、水中でクルッと回転して、全身で水の感触をたしかめてから、また浮き上がる。今度は背面になって天井を見上げ、ひとつ深呼吸をした。 「……なんか、佐伯君、すごい」 「! ごめん、寛いだ」  白崎の声にハッとして、慌てて起き上がる。 「……っぷ」 「白崎?」  笑った。水の中に肩まで入った白崎が、その細くて真っ白に近い陶器みたいな肩を揺らして笑ってる。 「いや、なんか、水の中で寛ぐって、魚みたいだなって」  白崎の笑い方は、少し変わってる。大笑いしないようにしているのか、力んでる感じがした。ほら、眉が困ってそうな下がり眉で、その口元にぎこちなく力が入っている。 「水の中にいるの、好きなんだね」 「……うん。好き、かな。でも、最初はびっくりした」 「びっくり?」 「俺、小学生まで泳げなかったって言っただろ?」  お父さんが水を怖がるから、俺も水は避けてるところがあったんだ。たまに大変そうな顔をするお父さんにこれ以上負担をかけたくなくて、手伝えることは手伝ってたけど、それでも、子どもの俺にはできないことばかり。夕飯も作れないし、仕事も代わってはあげられない。だから、せめて笑っていて欲しくて、お父さんが怖がる水場には行きたがったりしなかった。行かないように気をつけてた。 「でも、小学校で泳げなくて。お父さんが教えられない代わりにってここに連れて来てくれた。最初は戸惑ったんだ」 「水、怖かった?」 「いや……どうだろ。そうでもなかったかな」  言いながら、自分の胸の辺りでユラユラ揺れる水面を見つめる。ドキドキはしたけれど、正直、怖くはなかった。興味のほうが勝っている感じ。ここから一歩踏み出して、水に触れたら、どんななんだろうって。  ――おいで。気持ち良いよ。  そう言ってくれた人がとても楽しそうに水の中から手招いていてくれたから。 「入ったら、冷たくて気持ち良くて、浮いてるみたいでさ」 「……」  ――水に潜って目を開けてごらん。すごく綺麗だから。  ちょっと怖かったけど、その時、睦月の瞳に水の青色が反射で移り込んで綺麗だったから、やっぱり興味のほうが勝って。  ぎゅっと目を瞑って、頭まですっぽり水の中に潜り、目を開けた。 「綺麗だった?」 「うん。すごく、綺麗だった」  水の色。もちろんプールの色なんだけど、でも青一色の世界、酸素がぶくぶくと水泡になって不規則に浮き上がっていくそこは別世界だった。指先に触れる水の感触、音が自分の耳の奥にあるような不思議な錯覚。外の音は何も聞こえなくて、耳には水の音、外の景色とは全く違う場所。 「楽しかったよ」  白崎の瞳にも水の色が映り込んでいた。白い肌にピンクの頬、水の青色が混ざる瞳は神秘的って思えるほど。  綺麗だ。 「佐伯君?」  目が合って、慌てて、水面に視線を向けた。なんか、目を合わせちゃいけないような気がしたんだ。 「そ、そうだ。水に慣れるところからやろう。人は基本水の中で浮けるし、泳げるようになってるんだ。力んだり、怖がって身体を硬くするから泳げないし、沈むだけの話でさ」  ピンク色の唇をきゅっと結んで少し身構えるような白崎に、笑ってみせる。大丈夫だよって、伝わるように。 「平気、怖くないから」  せーのっ、その掛け声と一緒に水の中に潜った。一瞬で、音の質感が変わる、いきなり侵入してきた人間に水がびっくりして、ぶくぶくと泡と共に、ちょっとだけ騒ぐけれど、でも、すぐにそれも馴染んで。目を開ければ、青色の世界が広がっている。ユラユラと手も足も重さを感じなくて、この中を息継ぎなしで泳ぎまわれてたらどんなに気持ち良いんだろうって。  目の前で同時に潜った白崎が目を丸くしていた。口をぎゅっと結んで、いっぱいに空気をそこに詰め込んで丸く膨らんだピンク色の頬。  白崎が、青色に染まっていた。  それはとても澄んだ青色。 「っぷ、はああああっ!」  水面に上がってきたのはほぼ同時だった。 「なんだ。白崎、平気そう」 「え?」 「水の中で楽しそうな顔してたよ」  青色の染まっていた君は水面に出た瞬間、途絶えていた呼吸に肩を忙しなく上下させて、水の中で丸く膨らませていた頬をまた、花みたいな色に染めて、やっぱり俺はここで見かけることのない花の色をした白崎にびっくりして目を逸らした。 「そろそろ一回休憩しよう」 「あ、うん」  そうがっつりなカナヅチってわけでもなさそうだった。もっとガッチガチなのかと。 「白崎、あおり脚になってるからさ」 「あおり、脚?」 「そう。平泳ぎの時」  水を蹴る時の足の角度が違ってるんだ。たぶんそこを直せば、グンと速く前に進めるようになる。手を足に見立てて教えると、水の中を移動しながら、白崎が小さく何度も頷いた。 「たぶん、すぐに泳げるようになるよ」 「……」 「あ、待ってて、水上がるの」 「佐伯君?」  俺はいち早くプールから上がると自分のジャージを手渡した。さっき、更衣室で着替えた時、白崎は水着の上に着れるようなものは用意してなかったみたいだから。 「え、でも……濡れちゃうし」 「いいんだ。いつも練習で使ってるからさ。案外、上がると肌寒いよ」 「……ありがと」  それに、真っ白な肌はなんか、眩しいから、着ていてくれたほうが俺にとって好都合っていうか。 「でも、あの、これからかってるだろ」  助かるっていうか。是非着てもらわないとって思ったんだけど。 「サイズ、全然違うし、なんか逆に体格差をまざまざと見せ付けられるっていうか、モヤシ体型なのが丸わかりっていうか」 「……」  全然、好都合じゃなかった。むしろ、不都合がすごいし、全然、俺が助かってない。 「ご、ごめっ、ごめん、なんか、むしろごめん」 「ちょ、なんでっ、佐伯君がダメージ受けてるんだよっ」  真っ赤に怒って、俺の練習着を、オーバーサイズのTシャツみたいに着こなす白崎。 「ダメージ受けてるのはこっちだって! もうっ」  だって、まさか、こういうのは想定外すぎて、なんか、心臓が飛び跳ねたっていうか。 「でも、なんか、うちのクラスの女子にも人気で、モテ男子の佐伯君にダメージを与えられたのは、楽しいかも」  笑った。 「モヤシがモテ男子に勝利、みたいな?」  白崎が、ちゃんと、笑った。 「モヤシの大勝利」  眉を下げて困るとか、変に力むとかなくて、ただ素直に、俺に勝てたって満足そうに笑った。その笑顔に目が釘付けで、俺は。 「モテ男子を打ち負かした!」  俺には、水中にいるみたいに音が消えて、白崎の声だけがとてもよく聞こえた。

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