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第10話 戸惑う、新米。
白崎はカナヅチっていうほど泳げないわけじゃなくて、数回練習して、水に慣れさえすれば、あとフォームを少しだけ整えたら、全然うちの高校の水泳で困ることはなさそうだった。
「今日はありがと」
「あ、うん……たぶん、白崎は泳げるよ。あんま心配しなくても大丈夫だと、思う」
「ホント?」
それを少しだけ残念だと思った。
別に悩むほどのカナヅチなんかじゃない。泳げるけど、身体が妙に力んで泳ぎにくくなるだけ。手足を伸ばすのがぎこちないのを直すだけでいい。
「うん」
「そっか」
ずっと、たくさん教えてあげないと泳げないと思ってたから、俺は気合入れてたんだ。だから、こんなに肩透かしっていうか、残念っていうか、もっと――。
「……そっか」
真冬で、外はもう夜の冷気で何もかもを凍らせようとしてくる。白崎の周りにも忙しなく白い綿飴みたいな吐息がいくつもできて、冷気に溶けて、またできて。ちゃんと乾かさないと風邪引くからって、まるでお父さんみたいに何度も言ったら、「わかったってば」って笑ってた。困ったような笑い方じゃなくて、静かな笑い声だったけど、楽しそうだった。でも、その笑い方も、今のこんな感じの会話も、ウワサの転校生とはちょっと違ってて、俺には、そんな白崎を特別枠で見られてるみたいに思えて、ちょっとさ。
「でも! 白崎のあおり足は直さないといけないし、あと、腕の動かし方甘いし、キックもまだまだぎこちないし、息継ぎのときの肩の上げ方も、それに」
「……」
ちょっと、レアな白崎を見られるっていうのが、なんか特別で、なんかすごいことで。
「だから、明日からも、っつうか、冬休み中は練習しといたほうがいいと思う」
「……」
「あれ、鉄は熱いうちに打てっていうか。と、とにかく、ラストのほうでせっかく足のフォーム直ってきたから、明日またやっといたほうが」
いや、これはマジでホント。俺は全く泳げないとこからスタートしたから、そんなに悪いクセってなかった。けど、ある程度泳げるようになった頃、睦月みたいに泳ぎたくて、見よう見まねでバタフライやったら、変な覚え方したみたいでさ。しばらくフォームの矯正に時間かかったんだ。だから、白崎も。
「佐伯君って本当水泳好きなんだね」
そう、水泳はマジで好きだから、だから、その楽しさを白崎にも知ってもらいたくて、だから、今回だけじゃなく、まだレッスンしたほうがいいと思うだけでさ。
「うん。是非、お願いしたいです」
「え、ぁ……はい。こちらこそ、是非」
だから、またここで俺が教えるっていうか。
「なんで白崎、敬語?」
「あははは、佐伯君もじゃん。あ、違った。佐伯コーチ」
「ちょ」
また笑った。しかも、なんかコーチ呼びとかでからかいながら。
「はっくしょん!」
白い肌、華奢な体格、の割には。
「っぷ。なんか、白崎のくしゃみ、おっさんっぽい」
「はぁ? 失礼だなっ」
「あははは。ごめんごめん。って、冷えるよな」
誰だよ。白崎のこと謎めいた転校生って言ったやつ。
「そ、そしたら、明日もっ」
「うん。明日もここで同じ時間に待ち合わせしよう」
話したら、すごく気さくて楽しい奴だった。
「うん。それじゃあ、また、明日。佐伯君」
一緒にいたら、謎なんてちっともなくて、普通に俺らと同じ歳の男子だった。泳いでみたら、ちっともカナヅチじゃなかった。案外、接してみると、印象とかイメージとかは全然合ってないものでさ。なら――。
「うん。また明日」
なら、あの濡れてないのに、どこかしっとりしてそうな柔らかそうな髪は、触れたらどんななんだろう、なんて。
「……」
なんて、そんなことを考えながら、ただひたすら漕いだ自転車はいつもよりも速くて、冬の冷気が頬を切りつけるような寒さのはずが、そんなんを気にしてられないくらいに、身体が熱くて、あっという間に、十分以上短縮で家に帰れた。
「ただいま」
「あ、おかえり」
玄関を開けたらちょうど睦月が毛布を持って廊下を歩いているところに遭遇した。
「千佳志さんが寝ちゃったんだ。まだもう少し寝かせてあげようかなと思ってね」
「ふーん」
睦月、体調悪いのかな。いつもだったら、抱き上げて寝室に連れていくのに。
お父さんは睦月とコタツがあると瞬殺で寝てしまう。普段はけっこうしっかりしてる人。俺と二人でいる時はお父さんって感じでコタツで居眠りなんてしないし、逆に俺が転がると「寝るなら部屋でちゃんと寝なさい。風邪引くよ」なんて言う。けど、睦月と一緒の時は逆に言われる側でさ。だから、コタツで寝ちゃったお父さんを睦月がよく抱っこして寝室に連れていくのに。
「ヨダレ垂らして寝てるんだよ」
あぁ、だからそんなに嬉しそうなのか。睦月が笑ってた。
きっとヨダレなんて垂らして寝てるお父さんの隣に座って、じっと観察するつもりなんだ。そんで、起きたお父さんが「起こしてくださいっ」って怒って、それにもまた笑って。もう冬になるとよく見る光景だった。
俺は、そんな二人を見て、口開けてる間抜けな寝顔なんてずっと眺めて楽しいのかな、って。そんな優しく微笑むほど素敵な寝顔なのかなって、不思議だった。でも、お互いのことを本当に大事にしてるのはすごく伝わる。
「お父さんのこと、好き?」
「あぁ、好きだよ」
照れるでもなく、幸せそうにそう答える睦月の笑顔はずっと変わらない。
俺はそんな睦月の笑顔をずっと見ていたから、誰かを好きになったら、そんなふうに俺も笑う時が来るんだろうかって思っていた。ヨダレ顔も愛おしいと思えるんだろうかって。そして、そんな笑顔になれたら、その人のことが好きってことなのかなって。
お父さんのどこが好き? って、訊いたことが何度もある。だって、睦月はゲイじゃない。それなのに男の人を好きになるって、よっぽどだと思うんだ。お父さんのどこがそんなに? って、子どもだった俺にとっては素朴な疑問だった。
答えはいつも一緒。
全部だよ。笑った顔も怒った顔も、変な顔も、優しいところも、案外頑固なところも、全部。
そう答えて笑うんだ。そんな恋に出会えたことに感謝してるって。
「最初から好きだった? その、いつから好きだったの?」
「うーん、いつから、だろう」
俺はまだそんなふうに誰かに微笑んだことがない。まだ、睦月みたいに誰かを好きになったことはない。そのきっかけすらまだ見つからない。
珍しく睦月がすぐに答えなかった。お父さんのどこが好きなのかは即答する睦月が答えに困ってる。それにびっくりして、ちょっとワクワクした。いつだったんだろうって答えを待ってた。
「気がついたら、かな」
「気が、ついたら?」
いつの間にかってこと? じゃあ、その気がつくタイミングってどんな時? 何があって、そのことに気がついたの?
「そう、気がついたら。って、伊都何かあったのか?」
「なっ、なんでもないっ、あ、あの、そういうのって」
好きって、どう気がつくの?
「シー、千佳志さんが起きる」
「あ、ごめん」
「風邪引かせるから、ほら、伊都も早く風呂入りな。風邪引くぞ」
「あ、うん。ね、睦月」
「スイミング初コーチしてきたんだろ? どうだった? 教えるの楽しかった?」
難しかった。身体の動かし方を言葉で伝えるのは大変だった。でも。
「明日もその子に教える?」
「あ、うん」
「そっか。……頑張れ、新米コーチ」
「……うん」
大変だったけど、でも、楽しかった。
「あ、ちょっ、睦月っ」
睦月はニコッと笑って、俺の頭を二回、子どもにするみたいにポンポンって掌を乗せると、そのまま行ってしまった。リビングでヨダレを垂らして寝ているお父さんの肩に毛布をかけに。そんな寝顔の隣に座って、じっと見つめながら微笑みに。そして、俺は、どんな時にどんなふうに、好きって、睦月が気がついたのか、聞きそびれてしまった。
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