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第14話 内緒

 自分が泳いでる時、俺、かっこいいだろ? なんて、一度だって思ったことないよ。当たり前だけど、普通に泳いでるだけ。水を掻き分けて、掴んで、蹴って、前へ、前へってとにかく進んで良いタイムが出したいだけ。睦月みたいになりたいだけ。 「……ふぅ」  ゆっくりと息を整えた。肺が、呼吸が落ち着くのを飛び込み台の上で感じながら、ふと、視線を水面から、日向へ向ける。  日向がプールサイドに立っている。こっちを真っ直ぐに見つめて、いつもみたいにほっぺたピンク色にさせて、その唇を真一文字に結んで。  飛び込みでの入水はタイム取る時だけで、今はタイム取るわけじゃないんだけど、まだ人がそんなに多くないし、タイム取ってるフリをしてるから大丈夫。ただ同級生に泳ぎ見せるのに飛び込みまでする必要ないのかもしれないけど。いや、ないんだろうけど、でも、飛び込みがいいんだ。 「……」  あ、ちょっと緊張した。っていうか、このまま気持ちが落ち着くのを待ってたら、もっと肺がバクつきそうだったから、深く、大きく息を胸に溜めて――飛び込んだ。  水の抵抗はできるだけ少なく、手から頭、肩って、小さく揺れる波の間をすり抜けるように飛び込んで、しばらくは水の中を進んでいく。この時がすごく好きなんだ。水の中の生き物みたいで、子どもの頃から大好きだった。  誰かに見せるために泳ぐのなんて、子どもの時以来だ。  初めて海で泳いだ時。睦月と家族として迎えた初めての夏、すっごい暑くて、砂が焼けるようで俺は裸足で慌てて湿った砂のところまで駆けていった。海はその時が初めてだったけど、怖くはなかったんだ。もう一年間、みっちり睦月に習って、クラスの誰よりも速く上手く泳げてたし。一年生の時には顔を水につけるのさえ躊躇っていたけど、二年になって、俺はバタフライの練習をするくらいまで成長してて。そんなところをお父さんに見せたかった。睦月に、俺のヒーローに習って、こんなに泳げるようになったんだよって。  お父さんはお母さんを連れ去った海に躊躇っていた。  海の中にいる俺と睦月を眺めながら、口元は微笑んでいたけど、いつもの朗らかな感じじゃなくて、力んでて。  俺は、怖くないよ、って伝えたくて、大きく手を振りながら海の中で何度も飛び上がって、お父さんを呼んだんだ。ほら、見てて、俺、すごいんだ。こんなに泳げるようになったんだよ。海は怖くないよ。お母さんを連れ去ったけれど、俺も、睦月もこんなに上手に泳げるから大丈夫だよ、怖くないから。見ててよ。さらわれたりなんかしない。へっちゃらだよ――って。  あの時の、お父さんの笑顔に似てた。力んでて、ぎこちない笑顔。そんな笑い方を、日向もしてたんだ。  ――ねぇ、笑ってよ。大丈夫だから。  そう思いながら、俺は自分の泳ぎを、見せびらかした。  俺も睦月みたいなヒーローになりたいんだ。  俺は君に。 「はぁっ、はぁっ、っ、はぁっ」  タイムは……そう速くなかったかな。やっぱ、緊張したから肩に力が入ってた。もう少し速く泳げるとこ見せたかったけど。ちょっと失敗した。激しく揺れる自分の懐の水を見つめて、ひとつ深く息を吐く。 「す、すっっっっっっごい!」  いきなり頭上から降ってきた、おおはしゃぎな澄んだ声に顔を上げた。 「めちゃくちゃかっこよかった!」  そこには日向がいて、目を輝かせて、ほっぺたなんて真っ赤にして、首も耳も真っ赤っかで、上品そうな口をあんぐりと開けて、俺を覗き込んでる。 「ヤバかった!」 「……」 「めっちゃかっこよかった!」 「……」 「これは、本当に、ヤバかった!」 「……っぷ。すっごいたくさん褒めてもらっているようで、二つしか言ってないよ。日向」  でも、よかった。日向にはかっこよく見えてたみたいで。 「だって! それしか出てこないんだっ!」  君にかっこいいって思ってもらえたんなら、タイム出なくても、まぁ、いっかって、そう思った。  やば……かった、かな。いや、かなりヤバくない?  だって、俺のマジ泳ぎ見る? とかさ! 痛々しくない? バク転できるんだぜって自慢する小学生と大差なくない? しかも、バク転じゃなくて水泳だし。  ――見せてくれてありがとう!  帰り間際、そう言ってくれたけど、クロール一本やって、平泳ぎに、バタフライ、背泳ぎって、俺、何、がっつりメドレーやってんの? おだてられて木に登りすぎじゃないか? 「……そんな玄関のところで何しゃがみこんでんの?」 「うわあああああ!」  睦月だった。濡れた髪をバスタオルで拭きながら、睦月がそこで不思議そうに、俺を見つめてた。しゃがみこんで、数十分前までの自分のテンションに後悔している俺を。 「……顔真っ赤だけど?」 「!」 「風邪引いた?」  無言でブンブンと首を横に振った。風邪なんて引いてない。っていうか、バカだから風邪引かないと思う。 「な、なんでもない」 「……」  うん。相当なバカだと思う。今、自転車に乗って、外の寒さでゆっくりじっくり冷ましてもらった頭で考えてみるととてもバカだったと。 「伊都、コーチ、楽しい?」 「え?」 「なんでもない。教えるの頑張れよ。教えるとそれだけで自分も伸びるから」  睦月がそう言って、玄関先でしゃがみこんでいる俺と同じようにしゃがんで笑って、頭を撫でてくれた。まるで、睦月がコーチをしてくれた最初のジュニアレッスンの時みたいに。 「ほら、早く風呂入りな。本当に風邪引くから。明後日からだっけ? 学校」 「あ、うん」 「おやすみ」 「……おやすみなさい」  そうだった。学校じゃん。きっと本当に風邪なんて引かないと思う。明後日から学校だって、忘れてた。  ――もう冬休み終わっちゃうよお! 伊都は変わらず、宮野コーチとみっちり水泳?  ポケットの中のスマホが短く振動して、見てみたら、ラインにメッセージが来てた。玲緒からだった。  ――俺は、この前から上映開始になったホラー映画観たよ。めっちゃ怖かった! 伊都は観れないよ、あれ。怖がりだから。  観たよ。今日、観た。いや、観てないかな。でも、そう言ったらきっと、玲緒は「誰と観たの?」って訊くんだろうな。そんで、日向とって言ったら、驚くかな。なんでいきなり? ってびっくりするよな。数日前までほぼ知らない転校生だったのに、今は日向って呼んで、映画を観に行ったんだなんて知ったら、きっと驚く。 「……」  いや、どうだろ。驚くよりも、怒るっていうか、嫌な顔をするかもしれない。俺がまた変な噂を立てられたらって心配して、眉をひそめる。たぶんだけど、良い顔はしないと思うんだ。  ――水泳三昧だったよ。正月、泳げなくて、ランニングで四駅分も走るくらいだから。  ――はい? 四駅も? 「……」  だから、良い顔しないだろうから、誤魔化した。本当は、日向といたけど、睦月はいなくて、俺がコーチをしてたんだけど、それを玲緒には言わなかった。  ――うん。そう。走って、泳いで、そんなだった。  ――あはははは。いつもと変わらないじゃん。  日向のこと、なんとなく、言えなかった。

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