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第15話 聞きたくない、言葉は、言いにくい言葉。
別に期間を決めていたわけじゃない。なんとなく「泳ぎ、教えてあげようか?」って言って、始まった。本物のスイミングスクールみたいに週何回とか、いつまでとか、レッスン代金とか決まっていたわけじゃない。
だから、いつまでも続けようと思えば続けられる。
日向は泳げないんじゃなくて、泳ぎ方が極端に下手だっただけ。うちの学校の厳しい水泳の授業に対して不安があったかもだけど、それもきっとどうにかなるだろう。
だから、もう続けなくても大丈夫。
「お父さん、スイミング行ってきます」
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
「うん」
「明日から学校でしょ?」
泳げるって、最初にもうわかってた。
「うん」
でも、まだ続けようって言ったんだ。泳ぎ方がぎこちないからって。明日から学校。そしたら、日向は――。
「いってきます」
外は切りつけるような寒さだった。雪でも降りそうなそんな冷えきった空気は頬に痛くて、真っ暗な空を見上げながら、真っ白な吐息をひとつ。
「……」
でも、別に水泳続けたらいいじゃん。学校が始まるから終わりにする必要もないし。もうけっこう上手に泳げるから、それこそ日向が続けたいって思うのなら、睦月に紹介して一緒に泳いだっていい。オリンピックを目指してるわけじゃない。大会に出て、自己ベストとかを塗り替えたい、睦月みたいになりたい、っていう個人的な目標でやってるんだ。日向が一緒でもそれはできるし。
学校は?
学校は、普通だろ。普通に接してればいいじゃんか。玲緒には映画のこと言わなかったけど、それはホラー映画苦手なはずの俺が行ったってなれば理由を知りたいだろ? タダ券もらったからなんて言ったら、きっと玲緒は行きたがるから。俺は日向と行ったって言えば、ズルい、ってなると思ったんだ。
でも、あの時一緒にいたのが玲緒だったら……。
「日向!」
玲緒だったら、一緒には観ていなかった。
「何してんの? 中、入れなかった? いつもみたいに中で待ってればいいのに。寒いじゃん」
友達と、ホラー映画好きな女子がクラスにいるから、一緒に行ってくるだろう。どうぞって渡したと思う。
「風邪引くよ?」
俺は、それをしなかった。
「……あの」
「あ、なんだ。やっぱ入れるじゃん。中にスタッフ誰もいなかったとか? 平気だよ。睦月のほうから話してもらってるって言っただろ?」
「あの、伊都っ!」
何か話したそうにしている日向に、急に気恥ずかしさが込み上げきた。さすがに、昨日の「俺の泳ぎ見る?」みたいなのは自慢たっぷりすぎるって思われた? ウザかった? 俺も、あのあと、冷静になって反省はしたんだ。あれはないだろって。
「……あの」
「日向、ほら」
なんかテンション高かったから、おかしかったんだって。
「早く入ろう」
ほじくり返して自己嫌悪に陥っていたけど。日向といると昨日以上にめちゃくちゃ恥ずかしいことに思えて、うやむやにしたくなる。
あの時は、何か、有頂天だったんだ。だから、このまま流しちゃって欲しくて、ずっと話してながら、笑って、プールまで引っ張ってきた。なんであんなにテンションおかしかったんだろう。なんで、浮かれてたんだろう。
「あれ? なんか、今日、誰もいない。明日からもう完全に平日だからかな。大学生組も社会人組も大概、もう少し遅い時間だから、ラッキーだったね」
夕方のこの時間じゃまだ大学生は講義があるのかもしれない。お父さんみたいなサラリーマンなら確実にまだ仕事をしている時間帯だし。
「……伊都」
「とりあえず準備運動始めよう」
日向が何か言おうとしてる。でも、俺は照れ臭くて、日向が口を開く度に話題を振って邪魔をした。映画観終わったあと、夜、夢に出てこなかった? とか、自分が映画でもお化け屋敷でも、絶叫した時のこととか。あと、明日から学校がまた始まる、とか、他愛のないことを話して。
「明日、極寒なんだってさ。だから体育館めっちゃ寒そう。日向、あったかくしないと凍えるかもよ。寒がりだし」
水の中に入ると、慣れた水温にホッとした。きっと外よりも温かい水の中は心地良い。
「でも明日は短いから。そうだ、その後さ」
「伊都っ!」
その時だった。明日どっか行く? って話して、それと、このあとも、明日だけじゃなくて、明日以降も泳ぎたかったら来ても別に平気だよって、言おうと思った時だった。
コーチングも勉強になるって言われてるから、日向は気にせず、泳ぎに来てもらって全然かまわない。本当に睦月にそう言われてるから、俺はそれをそのまま日向に伝えようと思ったけど。
「伊都っ」
今度は俺が口を開いた瞬間、阻まれた。
「……あの」
日向が眉をひそめて、水面をじっと見つめた。何か言い出しにくいことを今から言うって、しっかり顔に書いてあった。
昨日の泳ぎ見せびらかしがここまで真剣で苦しそうな表情にさせてしまうとは思えない。きっと他に何か言いたいことがある。それが何かってわかっていないのに、それでも身構えてしまう。
「あの……もう、明日からは、来ないから」
「……」
「ありがと。あの、レッスン代を」
イヤだ、そう、思った。
「いくらかわからないけど、あの、ネットで調べたら、ここのスクールの」
「いらない」
「え?」
今日で終わり、はイヤだと思ったんだ。
「レッスン代なんていらない」
「あ、でもっ」
「気にしなくていいよ。俺の水泳にもいい効果あるんだし。高校の授業ってだけじゃなく、泳ぐの楽しそうだったんだから、このままここに来てればいいじゃん」
「あのっ」
「一緒に、泳ごうよ」
イヤだって思って、そんで、もっと一緒に泳ぎたいと思った。
「あの」
「なんか、俺が昨日泳いだのウザかった?」
「ちがっ」
「それとも俺だとあんまレッスンにならない?」
「そんなこと」
「何かイヤ、だった?」
最後の質問をする時、肩に力が入った。腕が突っ張って、力んで、これじゃ水の中に沈む。
「ごめん、なんか、した?」
「違うんだ。あの、伊都が謝るようなことなんて」
「じゃあ。泳ぐのが」
「違う! そうじゃないんだ!」
玲緒が水泳をやめるって言った時、そうなんだ、って言っただけだった。人それぞれ、みんな違うことを考えて違うものを見てる。だから、玲緒が決めたことを俺はとやかく言えないだろって思ってた。なのに、今、日向が同じように「もう止める」と言ったら、食い下がった。何をそんな必死にさ、俺は引きとめようとしてるんだろう。
「じゃあ」
「違うんだ!」
なんで、こんなに。
「俺、ゲイなんだっ!」
「……え?」
「君なら俺のことわかってくれるかもしれないって、そう思って、近づいたんだ。友達じゃなくて、ただ、俺のことわかってくれる人が欲しくて、それで君にっ」
「……」
「ただの自己中なんだよ。君の両親がゲイだって聞いて、そしたら、俺のことも伊都なら理解してくれるんじゃないかって、もしかしたら色々打ち明けて相談だってできるかもしれないとか、そんなことを思って、近づいたんだ!」
日向の大きな声がプールに響いた。
「だから、君の友達には不似合いなんだ。それに、ゲイの俺なんかと一緒にいたら、君はまた噂されて、イヤな思いをする」
「……」
「それなのに、近づいたりした。ごめん。ごめんなさいっ」
「日向っ!」
聞きたくないことを聞かされると身構えたみたいに、言いにくいことを言うほうもみやっぱり、その後の反応とか、言うのに力んだりして身構える。小さく竦めた肩が強張っていた。すぐに顔に出る日向の頬にはごめんなさいって、すごく固い文字で綴ってあるように思えた。
身構えて、力の入った身体は、水中でカナヅチみたいに重くなる。
「日向っ!」
謝って、ここから立ち去ろうとした日向が一瞬で、水の中に沈んだ。
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