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第16話 それに、触れた。

 一瞬だった。 「日向っ!」  一瞬で、水面に出ていた白い肩も白いうなじも、小さな頭も、水の中に消えた。 「っ!」  慌てて潜った水の中は普段の音が全部消えて、代わりに水の音だけが鼓膜を覆う。  青いフィルターをかけられた世界は普段なら涼しげだけれど、今は少し冷たすぎる。ボコボコと水の立てる音も、今は邪魔な騒々しい音でしかない。水がわめき散らしてるみたいだった。そして、その喚く水音に覆われて、他には何にも聞こえなくなる。わからなくさせる。日向を呼ぶ声も、姿も。視界が泡で遮られる。日向が――。  真っ白な日向が、真っ青な水の中にいた。  水を掻き分けて、かかる圧を押しのけて、手を、白い日向へ伸ばした。  温かかった。  日向の手は、その名前のとおりだった。水の冷たさの中でたまらなく心地良くて、優しい温かさ。日向の体温。  水中で見る白い肌は水の色。  助けを求める指先は細くて、ぎゅっと掴んでしまったら折れてしまいそうだけれど、ちゃんと掴んで離さないようにきつく握った。そして掴み返してくれる指先の強さは、二人っきりの水の中ではとても安心できる。ひとりじゃないと、落ち着ける。  音も空気もない、誰もいない世界で、目があった。日向が俺を見つめてた。俺は――。 「っぷ、はぁぁぁぁ!」  くぐもった水音、空気と違う、掴めそうで掴めない水の感触が一変した。 「ゲホッ、ゲホッ!」  顔を上げた瞬間、呼吸ができる、音が切り替わる、心臓が慌てて動き出す。水から上がると一気に日向の重さが肩にかかってきた。 「ゲホッ……」 「大丈夫か? 日向っ」 「ゲホッ、だ、じょ、ぶっ……っ!」  水から上がる時に被っていた帽子は脱げて、苦しそうな眉間の皺に長い前髪がぺたりと張り付いていた。 「頭、打ってないか?」 「へ、き。びっくりしたけど」  いきなり吸い込んだ空気にむせて、プールサイドで横向きに転がった日向に覆い被さるようにしながら、上から苦しそうに咳き込む様子をじっと見つめた。 「……びっくりしたのはこっちだよ」 「ごめっ」 「心臓、止まるかと思った」 「ごめっ……」  本当にびっくりした。だって、急に消えるから。急に。 「バカ、だろ、日向は」 「っ」  恋を、知ったから。 「何、その不似合いって」 「……」 「友達になるのって、そういうとこからなんじゃないの? 知りたいとか、共通点があったからとか、近づいてって友達になるんだろ」 「……でも」  君に、恋をしていると、たった今、知ったから。 「でも、伊都のお父さんが男性と付き合っているって聞いて、話がしたいって」 「いいじゃん。ねぇ、君のお父さんゲイなの? って訊けば」 「そんなの興味本位でっ!」 「日向は興味もない奴と友達になるの?」 「ならないけど!」  ムキになる君。きっと溺れかけた時に体力を使いすぎたんだろ。俺が覆い被さるように君のことを両手で行く手を阻んでるのに、何も気にせず、律儀に答えてる。 「うちの親、同性愛者っていうか、好きになった人が男の人だったんだ。お母さんは俺が二歳の時になくなってて、そんで、ひとりで育ててくれたんだけど、小一の時に、睦月、恋人ね? その人に出会った」 「睦月って……」  真面目で律儀で、きっと同性愛っていう共通点を持つ俺の話をいっぱい一生懸命聞いてたんだろ。その名前をチラホラ口にしてたから、ちゃんと覚えててくれたみたいだ。 「俺の水泳のコーチ」 「……」 「家族三人で暮らしてるよ」 「……家族」 「うん。親戚も睦月のことを知ってる」  日向にはびっくりすることばかりだったんだろう。目を見開いて、ひとつひとつしっかり聞きたくて、耳を澄ましてるのがよくわかる。だからゆっくり伝えた。 「あの……俺、夏に転校してすぐ、伊都にまつわるウワサを聞いた」  たぶん、お父さんと睦月のことだ。俺の周りに立ち込めたウワサ話と、日向の転校はほぼ同時だったから。 「話したいって、思ってた」 「うん」 「そしたら、お正月に、神社で会えて、ドキドキした」 「うん」  そう言えば、俺の名前知ってたっけ。転校して隣のクラスの奴の名前までちゃんと覚えてるもんなのかなぁって思ったけど、そのウワサで事前に知ってたんだ。 「少し話して、でも、いきなりそんなプライベートは訊けないからさ」 「いいのに」  そんなに気にしないよって言うと、困ったように笑った。そうだ。俺はその笑い方が変わってるって思って、でも普通に笑うところを見たから、もっとそんなふうに素直に笑えばいいのにと思った。 「そのあとすぐ、道端で偶然会って、またびっくりした」  お金を貸してもらった時のだ。コンビニで俺はお茶を、日向はコンポタを頼んで、それで喉潤す気? って笑った。  あぁ、なるほど。  あの時、俺の親のことを聞きたかったのか。何か言いたそうな顔をしたり、喉乾いてるわけでもないのに、コンポタで、俺が飲み終わるのを待っていてくれたのは、きっと相談したかったからだ。水泳教えてあげると言ったらお願いしますって、他にも、いろいろ、細かくだけれど、日向が話すきっかけを探した欠片がチラホラとと足元にいくつも転がっている。 「いっぱい話したら、伊都はすごく良い人で、人気なのわかるって思った」 「……」 「そして、申し訳なくて」 「……」 「俺なんかと一緒にいたら、伊都まで悪く言われるだろ。それなのに、俺は自分の一人ぼっちを紛らわしたくて近づいて、君のことも巻き込むところだったんだ。しなくてよかった」 「……」 「こんな良い人なのに」  本当に、びっくりした。 「だから、もう伊都とは」 「やっぱ、日向バカだ」 「……」 「俺たち友達だろ」  せっかく恋を知ったのに。 「……伊都」  君を閉じ込めようと床についた手をどかして、覆い被さっている自分もどいた。 「もう友達なんだから、そんなおかしな気の使い方なんてしなくていい」 「伊都!」  びっくりだ。たった今、知ったばかりの、触れたばかりの恋を、今すぐ、もうここで手放さないといけないなんて。 「友達、だろ?」  その単語ひとつに、何気なく使っていた「友達」って言葉に、こんなに胸が苦しくなるなんて、知らなくて、ホント、びっくりだ。
作者