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第17話 触れたら、それは

 水の中で、触れた君の手は温かくてとても心地良かった。  水の中で見つけて、掴んだ恋は柔らかくて、ドキドキした。  でも、もう触っちゃいけないんだろうな。 「俺、泳げたんだ。もちろん、伊都みたいにじゃないけど、でも普通には泳げてた。高校一年までは」  だって、俺は君の友達だから。 「好きな人が、できて……」  珍しく誰もいないプール。でも、あと、一時間もしたら仕事帰りの人とか、大学生の田中さんたちがポツポツとやってくるだろう。  今だけ、だだっ広いここに二人っきり。そして、誰にも聞かれないからと、日向が話してくれるのを聞いていた。日向が、転校してきた理由。ずっとそういう類のことを同級生にも、誰にも言えなくて、理解のある友人が欲しかった日向。そんな日向の話をようやく見つけた友達として聞いている。 「高校一年の時、同じクラスだった……その、男子に」  プールの淵に腰を下ろして、足だけを水の中に浸して、たまに水をつま先で蹴ってみたりしながら、俯く日向の横顔を見つめながら、聞いている。 「すごく、仲が良くてさ」  友達として、好きな人の話す片想いを聞いている。 「クラスでも目立つ感じの奴で。たまに一緒に授業さぼったりとか。なんか、俺を誘ってくれたことが嬉しくて、ついてってさ。なんもないよ? 普通にどこかの空き教室とかで漫画読んだりとかしてた」  日向はずっとひとりで抱えていたことをようやく共有できる友達ができたことに嬉しそうだった。 「俺の親は理解のある人でさ。もうカミングアウトしてあるんだ。ゲイって話してる」 「……」 「だって、別に恋愛対象が同性ってだけのことだろ? 何もやましいことなんて」 「……」 「ないと、思ったんだ」  恋をするのは自由じゃないか。ただ好きになった人が、好きになる人が同性っていうだけのことで「差別」を受けるなんて間違っている。だって、ほら、テレビでもよく取り上げられてる。そう思ったと、日向が悲しそうに呟いた。だんだんと小さくなる声。テレビのニュースとか、ネットとかで同性愛者の婚姻が認められたっていうニュースを見ては、自分はおかしくなんてないと胸を張るべきだと、思ったって語る最後のほうは、足先で蹴る水音にさえ掻き消されるくらいに小さかった。 「だから、ある日、授業をサボってた時に、言ったんだ。好きだって……」 「……」 「そしたら、断られた。普通に。自分は男を好きにはなれないからって」  断られたのに、普通に断られたことにホッとした自分がいたって悲しそうに笑ってる。ただ好きと言ったんだから、ただ普通に答えが返って来るのは当たり前のことなのに。それでも同性だからってだけで、「普通」じゃなくなる。 「でも、その翌日から世界が冷たくなった」 「え?」 「どこかで見てた奴がいたのかもしれない。何か、俺の仕草とかそぶりで気がつかれたのかもしれない」  それは火種がそこにあろうとなかろうと、勝手に上がって、勝手に嘘っぱちの火事をでっち上げる正体不明の煙。 「ホモなんだって、噂された」 「……」 「俺だけじゃなくて、その好きだった奴も一緒に。だから、授業サボってどっかでやらしいことしてたんだ、とか、不良っぽいあいつと、大人しそうな俺と、どこか不似合いな二人がよくつるんでたのはそういうことか、とか、色々」  日向が悲しそうに顔を歪め、一度、きゅっと唇を結んだ。いつもはピンク色をしているのに、目の前の水面が反射しているのか青が混ざっていて、とても寒そうだった。柔らかくて、ツボにはまるとけっこう大きな口を開けて笑うのに、今はとても悲しそうに閉じている。ひどく寒そうな色をして。 「俺はいいんだ。本当にゲイだから。でも、そいつは違うからさ。すごくイヤだったと思う。だから俺は距離を置いて、一言も口をきかずにいた。ずっと。ずーっと」  でも、噂はひどくなる一方だった。最初は、チラホラと小耳に挟む程度だった噂話。見えるか見えないか、ギリギリのうっすらとした煙が立ち上っていただけで、このまま鎮火してくれそうなほどか細かったのに。いつの間にか、それは見えない落ち葉の下で確実に大きな火種になって、燻って、今にも、オレンジ色をした炎が立ち込めそうなほどの煙に変わった。 「話してないのに、目も合わせてすらいないのに、収まらなくて。っていうか、ひどくなる一方で。でもどうしたらいいのかわからなくて」  それは全ての音を掻き消すほどの大きな声になっていた。鼓膜を破いてしまいそうなくらい、ずっと隣で聞かされる呪文みたいで、身動きひとつできなくなっていく。苦しくてたまらなくて、目を瞑ったって声は聞こえる。耳を塞いだって、音は入り込んで来る。 「そんな時、ふと廊下ですれ違ったんだ。あいつと」 「……」 「そしたら、言われた」  とてもひどく悲しい言葉を。 「ウザイんだよって、こっち来るなホ」 「日向」 「……」  名前を呼んだら、ぽろりと大粒の涙がひとつ、頬を転がって、音もなくプールの中に落っこちた。音はないけれど、静かで俺らの声しかしないプールだから。  ぽちゃん。  って、聞こえた気がした。だから、そのくらい音がクリアなら、思ってることも伝わる。きっと、伝わる。自分を傷つけるような言葉なんて、どんな時も言っちゃダメだ。そんな単語、口にしなくていいんだ。自分のことを痛くする言葉なんて、持ってなくていいんだからさ。 「その後はっ、俺だけ、噂されて」 「……」 「いいんだ。好きな奴に迷惑かけてるってことが一番、きつかったから。俺は、それが払拭できただけで嬉しかったし」  一粒落っこちたら、ずっと溜め込んで、零すのを我慢してきた言葉と涙が溢れるようにポロポロと転がっていく。 「でも、そんなだから、高二の時の夏、授業のプールは入れなかった。怖くて」  水着になって、ほぼ裸で、好奇の目にさらされるのが怖かった。身が竦んで、強張って、身構えるのが精一杯だった。そんな夏が二度、高校三年の時も変わらず続いて。 「俺の親がそれで、見るに見かねて、転校させてくれた」  その転校先であるうちの学校に、もう一人、そんな噂にさらされている人がいた。それが、俺だった。親が同性愛者なんだって。子どもいるのに? え? じゃあ、もしかして、男三人で暮らしてる? ……そんな、ホント、大嫌いな噂。でも、俺は――。 「でも、伊都は身構えることなく普通だった。何度か廊下ですれ違ったことがあるんだ。笑ってて、同じクラスの玲緒君と普通にしてて」  ぽろりぽろりと溢れた涙のせいで頬がびしょ濡れだった。その涙があったかいのか、それとも泣いたせいでなのか、ほっぺたがいつもみたいにピンク色で柔らかそうで、触りたいって思った。思ったけど。 「すごくかっこよかったんだ。めちゃくちゃかっこよかった。噂なんかに負けない強くて、明るくて、かっこよくて、こんな人がいるんだって憧れた」 「……」 「友達になりたいって、思ったんだ。玲緒君が羨ましかった。だから、その」  触りたかったけど、触れない。 「もう、俺と、日向は友達じゃん」 「!」 「だろ?」  君の頬が濡れているけれど、君は笑って、泣いたことが恥ずかしいのか、少し困り顔だったけれど、でも、もう泣いてなかったから。君が泣いてないのなら、それでいいから。 「うんっ」  だから、触りたかったけど、触らなかった。

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