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第18話 恋を知る。

 恋を知った。  でも、同時に、その恋が実らないと知った。 「ただいま」 「あ、伊都、おかえり。明日は、学校にお弁当いらないんだよね」  帰ったら、お父さんがリビングからひょこっと顔を出した。 「うん」 「じゃあ、俺も睦月も仕事でいないから、お昼ご飯作っておく? それとも自分でなんとかする?」  お父さんも恋をたくさんしたんだろうな。俺のお母さんと、睦月以外にも、好きな人はいて、そのうちの何個くらいの恋が実らなかったんだろう。 「んー、自分で何か作るか、学校帰りに食べてくるかも」 「じゃあ、お金、リビングに置いとくね。早くお風呂入っちゃいなね」  鍵を玄関の靴箱の上にあるガラスの器に置くと、チャリンと綺麗な音を響かせた。 「……わかった」  そのガラスは透明で、透き通ってて、中に水泡みたいな泡をたくさん詰め込んで。さっき日向が溺れかけて潜った水の中みたいな泡がいっぱい。それと、日向のほっぺたを転がり落ちたとても綺麗な大粒の涙みたいに透明。  好きな人がいて、告ったらゲイだってひやかされた。その好きだった奴にも酷いことを言われて、ひとりで、とても孤独で、見るに見かねた親が転校させてくれた。  ――珍しいよね、この時期に転校生なんてさ。前の学校で問題を起こしたんだって。  その転校が去年の夏の終わりだった。  ミステリアスだったのはその前の学校でいじめにあって、周りに怯えて身構えていたからだ。問題なんて起こしてない。ただ、好きな人に普通に告白しただけなのに。  ――伊都のお父さんが男性と付き合っているって聞いて、話がしたいって。  ――君の友達には不似合いなんだ。 「……」  日向は興味もない奴と友達になるの? なんて、訊いてしまった。  ――ならないけど!  そう答えられた。 「……友達、か」  部屋に入ってすぐベッドに突っ伏して、マットに向かって呟いた。  そう、俺は日向の友達。  水泳を教えた初日、初めて自分がコーチングする側で、睦月の真似をして水になれるところから始めた。  覚えてる。  水の中に潜れる? って訊いてmプールに入った時、少し身体が強張って硬くはなってたけど、でも、目を輝かせてた。重力がほとんど消えて浮き上がってふわりふわりと揺れる水の中で漂える感触に楽しそうにしてた。  泳げたんだ。  ただ、泳ぐのが怖くなるほど身体が縮こまっていただけの話。  そのくらいひとりぼっちで耐えていた日向は初めて、素の自分でいられて、なんでも、それこそ同性愛のことでもなんでも話せる友達が今できて嬉しいはずだ。だって、最初、困ったような顔で笑ってた。眉を下げて、ちっとも楽しそうじゃなかった笑い方。それが変で、奇妙で、俺は声をかけた。笑わせたいと思った。  もう、きっとあの時から、日向に恋をしてた、のかもしれない。  ただ、恋をしたことがないから、すごく完璧な恋を身近で見てはいたけれど、自分はやったことがないからわからなかったんだ。  君を笑わせたい。あの困ったような笑い方じゃなくて、楽しそうに、嬉しそうに笑う日向が見たかった。  君に笑っていて欲しい。一回、その笑顔を見ちゃったから、もう一度見たくて、じっと顔を覗き込んで。薄ピンク色のほっぺたが笑ってくれるところが見たくて、たくさん話しかけた。もっと会いたいと思った。  君には泣いて欲しくない。悲しい気持ちになって欲しくない。  困らせたくない。 「……友達」  せっかくできたなんでも話せる友達を君から奪いたく、ない。 「伊都ー! 明日から学校なんだから、早くお風呂入って寝るんだよ」 「は、はーい!」  がばりと起き上がり、俺は、急いで風呂へ向かった。いきなり起き上がったから、頭がくらりと揺れるほど、泣いたり笑ったり、いろんな表情をする日向でいっぱいだった。  俺は、本当にバカかもしれない。 「うー……」  しんどいあまりにどうしても出た唸り声。それをマフラーの中で隠して、ひとつ、くしゃみをした。 「いってぇ……」  そのくしゃみに自分のバカな頭がズキンと痛む。もう完全に風邪を引いた。きっと昨日の帰り道に冷えたんだと思う。髪ちゃんと乾かすとか、そんなとこまで気が回らなかったんだ。それどころじゃなかったんだ。 「おっはよー! 何、珍しく普通の高校生みたいに寒そうな感じじゃん、伊都」 「……玲緒、声大きい」 「へ?」 「頭に響く……静かにして」 「うわっ、風邪? へぇ、珍しいね」  そう、珍しいよな。俺もあまりに久しぶりすぎて、風邪ってあんまり自覚してなかった。学校に来る途中でなんかダルいなぁって思いながら歩いてて、くしゃみした瞬間にすっごい頭痛に襲われて気がついたくらい。  でも、風邪じゃなくて、知恵熱ってやつかもしれない。一晩、色々考えてたから。  日向と話したあの元旦からのこと全部を思い返していた。ひとりぼっちで初詣をしていた日向から。何度も俺のお父さんと睦月のこと、転校してきた頃に耳にした噂話の真相を聞きたくて、でも優しくて生真面目だから聞けなくて。ずっと、その機会を探してた。  だから、俺は日向の友達になってやりたい。日向が躊躇った笑い顔じゃなくて、ちゃんと大笑いできる居場所を作ってやりたい。 「なんか、しんどそうだよ?」 「……平気」  平気じゃない。頭はぼーっとするし、身体は痛いし、寒いし、頭痛いし。って、頭のことばっかだな。 「熱、相当あんじゃないの?」 「だいじょーぶだって」 「でも」 「伊、都……?」  大丈夫。そんな顔しなくたって、日向はもうひとりぼっちじゃないからさ。 「おはよ。日向」 「あ、あの、熱がっ?」 「平気。元気だよ」  玲緒が目を丸くしてた。そりゃ、そうだよ。たった数日学校がなかった間に、初詣ですれ違っただけのミステリアスな転校生と俺が会話を交わしてることに、声も出せないほどびっくりしてる。 「でも!」  きっと、生真面目な日向は俺が風邪を引いたとわかったら、絶対に自分のせいだって思うだろ? それでなくても、前の学校でのことがあって、自分のせいってなんでもかんでも思いそうだから。 「なんもないよ。風邪なんて引いてないし。あ、またスイミング来るでしょ? 次は明日だから、いつもの時間で」 「……」 「そんじゃね」  隣のクラスだからとりあえず教室入っちゃえば、もう平気だ。そう思うと足が自然と急ぎ出す。けっこう本当にきついから。今日が半日でよかった。机で死んだように休んで、そんで帰って寝れば、一晩で元どおり。だから早く教室に。 「ちょっ! ちょっと! 伊都っ! 何? 何がどうなってんの?」 「ごめん、ちょっとだけ静かにして、玲緒……マジで頭に響くんだって」 「そんなのいいから! なんで風邪引いてるの? なんで、あの転校生が伊都のこと、伊都って呼んでんの!」 「……ない」  本当にしんどいんだって。少しだけ、寝かせてよ。 「はい?」 「転校生じゃない。白崎、日向だよ」  昨日、ちっとも眠れなかったんだ。だから、今だけ、ゆっくりしたい。

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