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第26話 海月キス
水泳は、当たり前だけど水の中で行うから、いつだって事故は付き物だから、それがどんな浅瀬だろうと注意を怠ってはいけない。
わかってるんだけど。どうしても気持ちがフワフワと水の中に漂う海月みたいに浮き上がってしまう。
だって、君が俺のことを好きだったなんて。
切ない片想いだったはずが、嬉しすぎる両想いだったなんて。
「休憩しようか」
「あ、うん」
浮かれるなっていうほうが難しいよ。
「日向、あおり足直ってきたね」
「ホント? だからかな、グンって、ひと蹴りで進めるようになった気がする」
今日の日向はよく笑う。大笑いじゃなくて、ずっとニコニコしてる。それが俺と同じ海月のように浮いた気持ちのせいだったら、どうしよう。ヤバいくらいに嬉しい。
「なんか、今日の俺、はしゃいじゃってる」
「日向?」
水面を見つめて目を伏せて、一歩一歩、水の中をプールサイドへ向かって歩いていく。その度、細い顎のラインをなぞるように滴る水滴を見つめた。濡れてる長い睫毛さえ妙に意識してしまう。集中しないとだろ? 水難事故の怖さは知ってる。それに日向はこの前、プールで溺れかけたんだから、ちゃんと気をつけないと。
「水の中は集中しないといけないのに、また水の中で転んだりしたら、伊都に迷惑かけちゃう。けど、ずっと伊都のことを好きでい続けられますようにって願ってたから、なんか、嬉しくて」
「……」
「まさか、両想いになれるなんて」
嬉しそうにはにかみながら、水面に話してる。こっちを見ちゃいけないみたいに。
「あの時、伊都が風邪を引いた時、お見舞にいったでしょ?」
プールサイドに辿り着くと、大きな水音を立てて飛び上がり日向がプールの淵に腰をかけた。いっせいに落ちていく水も輝いてみえるくらい、白い肌も眩しくて、見ちゃいけないと思った。思ったけど、見ていたくて、目が離せなくて。
日向が一息つきながら帽子を取った。けっこうぎゅっとしてるから、取るだけも心地良い開放感がある。水遊びあとの犬みたいに小さく頭だけ振って、ぺちゃんこになった髪をすぐに白い指で照れ臭そうにしながら掻き混ぜる。俺がプールサイドの淵に腰を下ろしても、日向はこっちをちょっとも見ようとしない。水面だけをずっと見つめてた。
「すっごいドキドキしててさ。俺、伊都に変に思われないようにって、ずっと唱えてたんだ」
「唱える?」
「うん。友達としてだからね、友達として、変に意識しないように、それとちゃんと謝ること、って」
そんなことを唱える日向を可愛いと思った。そして話しながら笑う横顔を綺麗だとも思った。澄んだ声が俺のことを呼んでくれる度に嬉しかった。
「なのに、伊都が、頭、触ったりするから。好きって気がつかれてのかもって思って慌てたし、好きな人に触れられて、心臓飛び跳ねてた」
ポタリ……と落ちる水の粒すらじっと目で追いかけてる。伊都、って呼んでくれる唇に触れたくて。
「伊都のこと、好きって、漏れてるんじゃないかって」
「今は?」
君に触れたい。
「今も、触ったら、心臓飛び跳ねる?」
漏れてる、気がするんだ。
君の好きが君から零れて、このプールの水に溶けてる気がする。あと、俺の好きも、日向の事が好きっていうのも、溢れて、この水の中に溶けていってる。だから、こんなに君から滴り落ちる雫ひとつひとつに見惚れるんじゃないのかな。ただの塩素混じりの水のはずなのに。
「日向、休憩終わりっ」
「え? もう? あのっ待って、帽子っ」
「水中で目を開ける練習。せーので潜ってっ」
「え? ぃ、伊都?」
俺たちの両想いが溶けた、恋の――。
「せーのっ!」
水の中は綺麗な青色。
君がいた。青色の中にふわりふわりと髪を海月みたいに揺らして、水泡を浮かせながら。
手を伸ばしたんだ。そしたら、日向も手を伸ばしてくれて、そして、指先をぎゅっと握り締めて水に漂って離れてしまわないように掴まりながら、捕まえながら、引き寄せた。
引き寄せて、自然と目を閉じる君に、キスをした。
唇に唇で触れたんだ。好きの溶け込んだ水の中で、海月みたいに漂いながら、二人っきりの青い世界で、柔らかくて優しい唇にキスをした。
「っぷ、はぁぁぁぁっ」
水面に顔を出したのはほぼ同時。ゆっくり丁寧に、そっと、そんで、ちょっと強く重なるキスをしたから、どっちもちょっと空気が足りてなくて、顔も耳も真っ赤だ。
「……」
真っ赤になってる君と目が合って、また、きっと好きの濃度が上がる。
「日向が」
「……」
「俺の、ファーストキス」
「え?」
「それと、俺の本当の初恋だよ」
あまりに真っ赤だったから笑っちゃったんだ。さっき世界一優しいキスで触れた柔らかい唇を真一文字にぎゅっと結んで、「嬉しすぎて困っています」ってその頬に書いてあるみたいに、ものすごい顔してるから。
「ぃ、伊都のっ」
「うん。そう。俺、睦月とお父さんの恋にめっちゃ憧れててさ。大好きだったんだ。あのふたりの雰囲気。優しくて、心から愛しいって思ってそうな甘くてあったかい感じ。そんなふうに誰かをいつか好きになりたいってずっと想ってた。あんなふうに優しく笑えたら、その時、どんな気持ちなんだろうって、ずっと考えてた」
「も、ちょ、伊都、あのっ」
「……うん。ごめん。なんか、困らせた?」
「こっ!」
ずっと、うらやましいなぁ、いつか、したいなぁ、って思ってた。
「こ、困るよ! 伊都の、そんな大切な、はっ、は、はっ、はつ、はつ、恋っをっ」
「日向だからだよ」
つい、微笑んでしまった。あまりに君が可愛いから。
「……そんなっ、だって、伊都っ、それって、すごく、あの、その……つまり、お父さんたちのすごく素敵な、そんな恋を、つまり」
「うん」
「つまり……」
「日向のことがすごく好きなんだ」
恋を君としてることが嬉しくて、笑ってしまうんだ。
「俺も、です。あの……初めて」
「日向の?」
しっかり頷いて、ごくんとひとつ息を飲んだ日向が顔を上げた。真っ直ぐに俺を見つめながら、ピンク色をした唇を開いて。
「ファースト、キス……でした」
「……」
「あ、ありがとう。その、してくれて。ちょっと、場所がプールでびっくりしたけど」
大丈夫だよ。だって、水の中はふたりっきりだった。
「俺もびっくりした」
「伊都?」
「日向の唇がめっちゃ柔らかくて」
「ちょっ! からかってるだろ!」
「え? なんでそうなるんだよ。からかってなんかないって、すごく本当に柔らかかったんだ」
「ぎゃああああ!」
君もまっかっかだけど、きっと俺も、恥ずかしいくらいにまっかっかなんだろう。だって、君が俺のお見舞いに来てくれた時、ドキドキしてたのは俺もなんだ。触れたくて、でも、友達でいないとダメだからすごく我慢して、堪えて、それでも抑えきれず触れてしまったくらい、あの時も、今も、君にキスがしたかったから。
慌てる姿をからかいながら、浮かれすぎて笑いが止まらないくらい、ずっとしたかったキスができて嬉しくて仕方がないんだ。
でも、そのあと、言われた。
睦月に、プールは上から見学できるから、次の時はプール以外でするか、三階の見学フロアに誰もいないことをしっかり確認にするようにって。丸見えだったんだって言われて、きっと日向だったら慌てて焦るだろうけど、俺は水から上がっても、海月みたいにふわりふわりと浮かれてたから、つい笑ってしまった。
そのくらい、本当に嬉しくて仕方がなかったんだ。
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