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第32話 余裕なんてないよ
いつも、水泳の時は学校終わって、うちで着替えて夕飯食べて、それからプールに向かってた。日向とは現地で待ち合わせ。ちょうどプールが俺と、日向のうちのある辺りと中間点にあるらしくて。
「はぁっ、はぁっ」
自転車で漕いでる時にはあまりわからないけど、信号待ちの間、途端に呼吸が荒くなる。
やばい。ちょっとどころじゃなく大幅に遅刻した。まさかの寝坊。夕飯の後、部屋でベッドに一瞬だけ転がったのがいけなかった。瞬間的に落ちて、起きた時にはすでに日向と待ち合わせてる時間。うちからプールまで自転車で二十分くらい。必死に飛ばしてもそんなに時間は縮まらなくて。だから、信号なんてすっとばしたいけど。
青になったと同時、飛び出すようにまた自転車を漕ぎ始める。
まさか居眠りするなんて。そう滅多にないんだけど、課題が最近多かったから。それに、夜、毎日、日向とラインしてるから、少しだけなんだけどさ。
おやすみ。
おやすみなさい。
そんなありきたりな挨拶の後、ちょっとだけ交わす今日のそれぞれのクラスの出来事とか、課題のこととか、そんな会話がたまにだけど盛り上がって、ホントたまにだけど、夜更かししてる時があって。寝不足ってほどじゃないけど。テンション高いのがずっと続いているから、一瞬、寝落ちた感じ。
「こんばんはっ! あの、日向って」
スポーツクラブの前、いつも日向が立って待っていてくれる辺りにはいなかった。でも、スマホには……連絡、なかったから、もう中に。
「最近、一緒の子? それならついさっきここ通ったよ」
受付にいた女性スタッフがそう言って、受付から見えるプールの中に視線を送った。俺もそっちを見たけれど、ざっと見た限り、プールの中に日向はいないっぽくて。
「ありがとっ!」
走って更衣室へと――。
「へぇ、あの辺なら俺の実家のご近所さんだよ」
廊下の曲がり角の向こうから田中さんの声が聞こえた。
「そうなんですか?」
次に聞こえてきたのは、日向の声。
「あ、じゃあ、あそこのパン屋知ってる? 住宅街にポツンってあるんだけど」
「あっ! わかるかもです! ずっと知ってたけど、入りにくくて。美味しいんですか?」
大学生で遊び人の田中さんと日向が楽しそうに話してた。大会の度に応援にくる女の人が違ってて、水泳上手いし、話しやすい人だけど、でもなんかちょっと苦手で。俺と、そういうこと、つまりは恋愛とかに関して意見が合わなさそうだなって思ってた。
「マジで? そしたら、今度……」
廊下の曲がり角から現れた俺に気が付いたのは田中さんだった。日向は背中を向けていて、ここに俺がいることに気がついてない。
俺と同じ位の身長の田中さんを見上げる格好の日向は華奢で細い。すっぽり覆えるくらいに体格差がある。
「今度行ってみるといいよ。あそこ入りにくいけど、めちゃくちゃ美味しいから」
素直に返事をする日向に笑って、そんで、こっちを見てまた笑った。
「あ、伊都!」
その田中さんの視線を追いかけて、日向が振り返って、こっちに歩いてくる。
「先に入っちゃった。ごめん」
「……」
「伊都?」
ちっちぇ。
「伊都? あの、大丈夫?」
そう口元を掌で覆いながら呟いた。
「伊都?」
まるで、子どもだ。今、俺はヤキモチを妬いた。女の子好きな田中さんが日向にちょっかいを出してるんじゃないかってって感じて、ヤキモチなんてした。
睨んじゃったじゃん。あの人のこと。
「はぁ」
「伊都?」
なんて、ダサさ。睨んだ俺のこと、からかうように笑ってた。あの人がどう思ったのかはわからないけど。睨みつける俺のことを面白がってる、大人の余裕を含んだ笑い方だった。
自分が思いっきりガキっぽく感じられて、悔しくて、溜め息が零れる。それを、心配する日向が真っ直ぐに俺を見つめて、手を伸ばして触れてくれる。額に、その白い手を当てて。
「熱、なさそうだけど……」
風邪じゃないよ。ただ、自分がこんなふうにヤキモチをすることにびっくりしてうろたえたんだ。こんなふうに誰かのことを独り占めしたいとか思ったこと、なかったから。
「伊都? どうし……」
「なんでもない。でも、あんま」
ただ話してただけだし。ご近所さんの話題。田中さんは話しが上手だから。いっつも違う女の人だけど、どの女の人とも楽しそうに話してる。日向はちょっと人見知りだけど、でも、話してみたらけっこう会話弾むし、よく笑うし。
それに、あの人と話しちゃダメとか、子どもじゃん。誰にも触らせたくないって、ガキっぽい独占欲なんて見せたくない。
「あんま? 何? 伊都」
「……」
日向にはかっこいいって思われたい。
「なんでもない。早く、プール行こ」
「う、ん」
今までこんなの思ったことないのに。独り占めしたいとかさ。かっこいいなんて自分のこと思ってないし、どこを見て日向がかっこいいって思ってくれてるのかもわかってないけど、とにかく、君にはかっこいいって思われたいんだ。
余裕のある感じ。日向のこと全部すっぽりと覆える包容力とか、そういうのってどうにかして出していたいんだ。
睦月がそういう感じだから。余裕があって、いつも、こう、なんて説明したらいいんだろう。
年下なのにさ。睦月がいるとお父さんが安心したように笑うんだ。お父さんが顔を真っ赤にしてる。んで、睦月はいっつも余裕の笑顔。
そういうのがいい。俺も、そんなふうになりたい。余裕あって、大人で、日向のことを包み込めるような、そんな感じに。
「そんなにたくさんキャンセルなんだ。じゃあ、人員未達とかで?」
お父さんの声がした。
「いや、それはないけど、まぁ、でも時期が時期だから仕方がない。それに、そのおかげで、堂々と千佳志さんとデートできるよ?」
「何言って」
「でも本当の事だよ?」
風呂から上がったら、そんな会話が聞こえてきた。
ほら、あの感じ。お父さんがたしなめても、それをふわりと笑顔で交わすんじゃなくて受け止める。ああいうのがうらやましい。きっとさ、あのくらいの余裕があったら、俺だって、田中さんひとりのことくらいで慌てなくて済むのにさ。
そしたら、日向ももっと俺のことをカッコいいって思ってくれるだろうし。そのくらいの包容力あれば、キスだって、なんだって、もっと――。
「あ、伊都」
「!」
びっくりした。目の前にさっきまで向こうでお父さんと話してたはずの睦月がいたから。
「来週の週末、家族旅行しよう?」
「へ?」
「日向君も親御さんが許せば一緒に」
そう言って微笑む睦月に俺は。
「……え?」
「旅行だよ。どうする?」
「行く!」
めちゃくちゃ元気に答えて、その拍子にまだ拭ききれてない髪の先から雫がピッと頬に飛んだ。
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