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第42話 マイヒーロー
「伊都! エントリーの最後、水に触れる時をもう少し気をつけて」
五十をイージーで泳いでいたら、睦月がいつの間にか立っていた。
「あ、うん」
フォームを確認してくれていたらしい。珍しい。まだこの時間だと事務仕事とかしてることが多いのに、もう水着になっていて、泳ぐみたいだ。
プールサイドに腰を下ろして、ジェスチャー混じりでフォームの欠点を指示してくれる。それを水の中で聞きながら、同じように手を形作って、フォームを体に教えていく。
「あ、あの、俺、プールサイドで見学してていい?」
「日向君も一緒に」
「あ、いえ」
首を横に振って遠慮とかじゃなく、泳ぐところを見たいからと笑って、すぐ近くに腰を下ろした。
目でその様子を追いかけると、日向が視線に気がついて、アドバイスをちゃんと聞くようにって、俺を手の仕草で促す。
「全体的に随分良くは、なってる」
「ホント? 日向に教えながら、自分もフォームとか見直せてたからかな」
たしかに泳ぎを正確に測ったわけじゃないけれど、感覚的に早くなれた気がした。
「それに……」
「伊都?」
「日向に、カッコいいって、言われたいし……」
いつもそう言ってくれるから。カッコ悪いところも含めてカッコ良いって、ちょっとわけわかんないけど、でも、とにかく頑張りたいんだ。
「なんだか、俺に似てるな」
「え?」
睦月が苦笑いを零して、水の中にちゃんぷんと入った。そして近くなった水面の光がその優しい横顔を照らす。
「よく伊都が俺のことをヒーローって言ってくれてただろ?」
「今でも、そう思ってるよ」
「ありがとな」
睦月は俺とお父さんにとってヒーローなんだ。俺は子どもの頃から睦月みたいになりたかった。
「でも、それが逆に心配だったりもしたんだ」
「……」
「カッコいいばっかじゃないからな」
「睦月はいつだって」
「そうありたいってだけだよ。本物のヒーローには程遠い。でも、千佳志さんと伊都だけは守ろうって思ったよ」
俺と、お父さんを。
「覚えてるか?」
「?」
「俺が水泳に復帰した時の大会」
覚えてる。一生忘れないと思う。俺とお父さんは睦月がいてくれって言ってたゴールのところに立っていて、お父さんはすごく緊張してた。睦月の復帰第一線に心臓のところでぎゅっと手を握っていて、俺は、声が枯れるほどずっと声援を送ってた。
「あの時、心臓ばっくばくだったよ」
「睦月が?」
「あぁもちろん。もうピークどころか、現役から退いた過去の選手だったからな。けど、千佳志さんと伊都がそこにいたから頑張れた。途中、三分の二くらいまで泳いだところで、もう限界って思ったけど、頑張った」
水をひとかきするごとに、グングン近づいてくる、力強い泳ぎはめちゃくちゃカッコよくて、本当のヒーローで。
「俺にとっては、ふたりがヒーローだと思った」
「……」
「それに、あの泳ぎからだったなぁ。自分のため以外の理由で、泳ぐようになったのは」
ゴールのところにいるふたりへと手を伸ばすように、ふたりを守れる強さを持てるように、復帰のスタートラインに立った。
「伊都にとってのその存在は日向君なんだろうな」
「うん」
「即答」
そりゃ、即答するよ。お父さんたちみたいな恋がしたいってずっと思ってたんだから。日向を好きになったのは中途半端な気持ちなんかじゃない。誰にも負けないし、誰にも否定なんてさせない。
「お前は、真面目だな」
「だって」
真面目にもなる。日向のことを俺はすごく大事にしたいんだ。大切にして、守りたい。ずっと、ずっと。
日向は会話までは聞こえないみたいで、きょとんとした顔でこっちを見つめてる。
「ふたりで、頑張ればいいと思うよ」
「ふたり、で……」
日向一人を守るためのヒーロー
「伊都がそういうの気にするって、珍しいな」
「?」
「カッコよく思われたいなんて」
「! そ、それはっ」
「いつも、素直すぎるくらいに素直で、自分の見栄えとかも気にしないようなとこあったのに。伊都は、自分の玩具でもなんでも、誰かがそれを欲しいっていうと素直に、どうぞ、って差し出すようなところがあるだろ? 欲がないっていうか」
玲緒もそんなようなことを言ってたっけ。すまし顔の奴、そんな感じに思っていたんだと思う。
「でも、欲があったみたいでよかったよ。まぁ、付き合って間もないだろう頃にキスをこんなプールのど真ん中でするくらいだからな」
「ちょ! あれはっ」
「欲があってよかったよかった。お前、食欲以外がどうも淡白だったから、心配してたんだ。食い気以外はどこに置いてきたのかと」
睦月が俺をからかって、大きな手で頭をポンポンって撫でた。
「ふたりで、頑張るんだぞ」
「……」
ふたりで、頑張る――。
「うん」
ゆっくり頷くと、睦月が笑った。そして。
「よし、そしたら、お前、フォームは良くなったけど、スタミナ落ちだろ?」
「!」
「教えながら自分も泳がないと」
そんなの難しいよ。俺、コーチングは初めてなのに。
「はい。そしたら、練習サボってた分」
「えええ?」
「アイエムリバース三本な」
「ええええええ!」
苦手なんだ。調子狂うから、その練習は苦手なのに。身体に染み付いた順番と逆になるからこんがらがるし、こんがらがるから体力消費するし。だからこそ、スタミナ落ちた俺がフォームチェックもかねてやる練習メニューとしては最適なんだろうけどさ。
「はい。頑張って」
「鬼だ」
「練習サボったお前が悪い」
「サボってないし。教えてたし。でも……はい」
コーチングを理由にはしたくないんだ。生真面目な日向が自分のせいでって思ってしまうかもしれないから。だから、素直に頷くと、睦月も自分の泳ぎに専念するべく隣のコースへと泳いでいった。
日向は……こっちを見て、頬を赤くして、目を輝かせてた。
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