46 / 115

第46話 君が我慢してた

 覚えてる。お父さんがチョコを睦月にあげたいって、二人で電車に乗ってかなり遠出をした。都会の大きな駅にも驚いたけれど、チョコレートの香りがする、その売り場はすごく混んでて、まだ小さかった俺は高い壁に阻まれてる気分だった。大きな声があっちこっちから聞こえて、びっくりしたんだ。  ――やめようか。別の場所でも。  そう言って帰ろうとするお父さんを引き止めたのは、俺だった。だって、わざわざ睦月に見つからないようにって、会社の人が教えてくれたところに一緒に行こうよって言ったお父さんはすごく楽しそうで、あんなにワクワクしてるお父さんは珍しかったから。だから、絶対に買うべきだって子どもながらに思ったんだ。  睦月は好きの形は見えないからって言ってた。  あの時のお父さんも好きを形にして渡したいと思って、あの日、電車に乗ってチョコを買いに行ったんだろうか。  それなのに、どうして、止めようとしたんだろう。  あの時、お父さんは何を思って、帰ろうとしたんだろう。  ――へぇ、千佳志さん、帰ろうとしたのか。  そう、そこまで楽しそうにしてたのに、目的地まで行ったら、急にやめようなんて言ったんだ。  ――千佳志さんらしいな。  ――帰ろうとしたこと?  ――いや、それでも買ってきてくれたことが。  睦月は、お父さんらしいって笑って、そして、そのまま残業で少し遅くなるって言っていたお父さんの好きな煮物を作りにキッチンへ向かってしまった。  俺はお父さんじゃないから、わからないけれど、でも、引き返そうと思ったお父さんはたしかにチョコを買って、帰りに同じチョコを食べていた俺に、とても嬉しそうに笑ってた。ほっぺたが赤くて、食べてるのは俺なのに、甘い甘いチョコを美味しそうに食べてるみたいな顔を、していたんだ。  ――おはよ。今日はマラソン大会、中止にならないといいんだけど。午後から雪マークだもんね。  朝、日向からそんなメールが入ってた。登下校は一緒にしていない。日向は目立つのを嫌がるから。  声を聞いたわけじゃない。顔を見て話したわけじゃない。でもその短いメッセージは少し元気がないように感じられた。そして、何かもっと違う言いたいことがあったんじゃないかなって。 「おはよー!」  玲緒と電車を降りたところで鉢合わせになった。今日はマラソン大会が行われる大きな公園に現地集合現地解散。ジャージ登校。同じジャージだけど、俺よりも寒がりな玲緒は首を怪我した人みたいにマフラーをグルグル巻きにして現れた。 「……今日、休み、かもね」  玲緒が好きな女子は遠方から通ってる。しかもマラソン大会は男女別れての二部制になっていて、先に男子が走って、二時間後だったかな、遅れて女子の部がある。コースも距離も違うし、人数が多いから混雑と混乱を避けるため。で、遅くに始まる女子の部はもちろん雪に遭遇する確率もあがる。マラソン大会が行われる公園は彼女のうちから更に遠くで、雪で帰れなくなる可能性だってある。 「寒いね。日向は?」 「もう先に学校行ってる」 「そっか。保健委員だもんね。でも、日向は男子だから、女子のほうの手伝いなんじゃないの?」  そして、保健委員はコース途中で怪我をした人がいた時ように先生と一緒にコースの途中に立って見張る仕事もあって、だから、日向には今日会えないかもしれない。 「そう、だから、今はたぶん先に行って、打ち合わせとか」 「あの……伊都君、ちょっといいかな」 「……」  びっくりした。 「あ、えっと……すぐ、済むから」  そこには日向と同じクラスで、日向と最近よく一緒にいるショートカットの女子がいたから。  玲緒も誰なのかすぐに察知して、彼女から見えないように後ろから俺の背中を突付いて知らせる。 (ねぇ、これって、チョコっぽくない?)  そう玲緒の視線が話しかけてくる。 「玲緒、ごめん。先に行ってて」  マラソン大会で俺たち高校生もいるけど、他に公園で遊ぼうとしている家族だったり、デートなのかカップルもちらほらいて、人の中に紛れて、公園までの道のりから彼女と一緒に外れた。まだ女子はあんまり見かけてないから、今ここに彼女がいるのは結構目立ってしまう。少し周囲から隠れられる垣根のあたりに移動した。玲緒の言っていたように、彼女はチョコを渡そうとしてるっぽくて、その胸に小さな、でも、高そうなチョコのパッケージを抱えてる。 「あのっ! ごめんね! 邪魔しちゃって」  彼女は真っ赤になって俯いていた。 「あの、うちのクラスの、日向君って、伊都君の友達でしょ? それで、色々相談乗ってもらってただけど」 「え?」 「あ、ごめん、なんか、日向君が名前で呼んでたのが移っちゃった。馴れ馴れしくてごめんねっ」  俺が驚いたのをいきなり名前で呼んだせいだと思った彼女が手にあるチョコを持ち直して、ぎゅっと両手で握った。  今、日向に相談してたって、言った? 「これから走るのに悪いなぁって思ったんだけど、日向君が、伊都君はクラスの係があるから、マラソンコース走り終わった後は捕まらないと思うって教えてくれたんだ」  ないよ。 「もちろん、マラソン走ってる時にチョコは渡せないし、帰りはその係でいないし、だから、今しかなくて」  そんなの、ない。 「でも、朝も玲緒君と一緒に、やっぱ係ので忙しいんでしょ? ホントごめんね。でも、あの」  俺は、係なんてしてない。玲緒も俺も、今日は朝普通に現地集合して、マラソンして、現地解散。 「チョコ、受け取ってください」  日向はずっと何かを言いたそうにして、でも唇を真一文字に結んで、我慢して、話してはくれなかった。  ――いつ終わるかわからないし、寒いし、だから、先に帰ってていいよ。  日向が委員会ので残るなら俺もって言ったら、頑なにそれを拒否した。なんでだろうって思ったけれど、かげる表情にそれ以上そのことを聞かなかったけれど。あれは、居残ってるところをこの子に見つかって、告白されたりしたら、イヤだから? 「ごめん」 「……」 「好きな人がいるんだ」 「……」 「すごく大事にしてて、付き合ってる」 「そっか……」 「うん。ごめん」  ねぇ、俺、何の係もしてないよ? 全然、今日は忙しくないのを日向は知ってるじゃん。スイミングでも、メールでもなんでも、その話を普通にしてたじゃん。忙しいのは日向で、保健委員として怪我人が出た時にすぐに対応できるようにって、あっちこっちで色々仕事があってさ。それなのに、マラソンが始まったらちゃんと走らなくちゃいけないだろ? だから、きっと俺が走るところが見られないって残念がってた。  走るの頑張ってねって。  ――人、いないなら、もう少し、キス。  ――寝てる伊都にキスしたかったから。誰もいないけど、学校だったし、しちゃダメなんだけど。  ――キス、したいなぁって。  日向がたくさん、キスをねだった。甘えてくれた。俺はそれに浮かれて喜んでたけどさ。 「玲緒!」 「伊都? もう、あの、あっちは、え? どっちに行くのっ?」 「俺! ちょっとチョコ買ってくる!」 「はぁぁ?」  バレンタイン告白の結果が気になったのか、公園の入り口のところをウロウロしていた玲緒を見つけ、声をかけて、そのまま今さっき駅から来た道を引き返す。 「駅! 反対側にコンビ二あっただろ! あそこなら朝でもチョコ売ってるからっ」 「ちょ! え? なんで? あのバレンタインって!」 「関係ない。いっつも俺が言ってるだろ。男子とか女子とかそういうの関係ないよ」  ねぇ、日向、何か、あるだろ?  ねぇ、知ってた? 好きは見えないけど、二月十四日はそれを形にして手渡すことができる日なんだ。  だから、恥ずかしがりやで、男同士の恋愛を気にしているお父さんは一度躊躇ったけれど、それでもチョコを買ったんだ。どうしても買いたかったんだ。好きは形にできたから、帰り道であんなに嬉しそうだったんだ。 「玲緒?」  玲緒が追いかけて来てた。怖い顔をして、何かを決めたっていう顔をして、俺の隣を走ってる。 「俺も買う! チョコ!」 「……」 「そんで! 渡すっ!」 「あぁ、俺も、日向に渡す」  君に、好きだ、と言葉だけじゃなく、形にして手渡すことができる日なんだって、知ってた?

ともだちにシェアしよう!