49 / 115

第49話 桜色に捕まった

 電車は大幅に遅れて到着。家にようやく帰り着いて、様子を知ろうとテレビをつけたら、バレンタインに記録的大雪のおそれって文字が画面の端に表示されてた。あっちこっち交通機関に影響が出てるらしい。  今、俺らが乗って帰ってきた電車の路線名も延滞って表示と一緒に画面下を流れていく。  そして、俺は、嬉しくなってるけど、喜んじゃダメだろっていう葛藤で心臓がバクバク言ってる。  落ちつこう、俺の心臓。 「はぁ」  でもさ、無理でしょ。だって――。 「シャワー、お湯、平気?」  曇りガラスの向こうに声をかけると、水を弾くような、ピシャンって音がして慌てた様子の日向の声が響いた。 「あああ、うん、大丈夫、あの、お父さん、たちはっ?」 「無理、みたい」  家について、その大雪警報が各地で発生してますってニュースをお風呂の湯を溜めつつ見てたら連絡があった。  今日は大雪で帰れなさそうなので、ふたりでちょっと泊まってきます。  そんなメッセージ。ふたりでっておかしいでしょ? 絶対に、何か、気をつかったとかでしょ? わからないけど、なんかそんな気がする。だって、この連絡が来たの、俺が日向をうちに泊めていい? って、訊いてから少しして来たし。  バレンタインだし。 「そ……なんだ。大丈夫かな」  だから、すごく落ち着けない。 「平気、でしょ。大人だし、なんか、ふたりで帰れないとか言ってるし」  職場が一緒なわけじゃない。近くもない。それなのにふたりして帰れないなんて、呑気な顔文字つきで送ってくるんだから。 「……そっか」  だから、すごく、なんか期待しちゃってる。嬉しくて、たくさんの人が雪で足止めされてるのに、雪に感謝しそうになってる。 「とりあえず、着替え、ここに置いとくから」  また曇りガラスで見えない向こうで水の跳ねる音がした。そして、次に大きな水音。君が風呂から出てきそうだから、慌てて、理性総動員して、風呂場をあとにする。  だって、大事にしたいのにさ、帰って早々、そういうのは、ちょっとよくないでしょ。泊まるのなら夜だってあるし、まだ昼間だし。いや、初めてした時も夜じゃなかったけど、でも――ほら、マラソン大会で十キロの道のりを走ってから、委員会の仕事で数時間あの寒さの中で立ち尽くしてた日向のことを思いやらないと。 「伊都……」  その声が曇りガラスの向こうじゃなく背後に聞こえて、手がピクンと反応した。見たらダメって思って、目を伏せながら、手を忙しなく動かして、頭の中をもう少しちゃんと正すべく、夕飯何しようかとか考えてみたり。 「雪だから、宅配ピザとか無理そうだし。あまりもので適当にとかでもいい? 俺、けっこう上手なんだ」  キッチンで冷蔵庫をあけて、ちっとも温まってない身体を更に冷やすべく、冷気に晒して。 「ほら、お父さん仕事あったし。俺ね、初めて作った料理が野菜炒め。だと思ったでしょ? うちのお父さんのがすごい好きだから自分でも作ったんだけど。何が違うんだろうね。あんま上手く、っ!」  期待に膨らみそうになる胸を落ち着かせようと、日向の気配を察知したがる背中がもっと鋭敏になるのを掻き消すように話し続けて。  あとで。  夜まで待てよ。  そんな言葉を並べてたら、トン、って背中に何かが追突した。 「伊都、ごめん」 「ぁ、日向、どうかした?」 「伊都のお父さんたち、すごく大変なのかもしれないのに」  君だ。お風呂上りで、うちで使ってるボディーソープの香りをさせた君が後ろから抱きついてる。  その指が充分温まったみたいで、薄っすらピンク色をしている。 「ちょっと、喜んじゃった」 「……」 「ごめん」  謝りながら、でも、その手は俺にしがみ付く、腕に更に力を込めた。 「あの、伊都」 「……」  振り向いたら、襲い掛かる自信があったんだ。 「ひゃっ! 冷たっ、伊都の手冷たい。あ、だよね! 俺先にお風呂入っちゃったけど、伊都はまだっ」  だって君は今、雪で凍るように冷たくなった制服じゃなくて、俺の服を着てて、そんでその肌は湯に浸かって、あったかくて、柔らかくて、艶めいて、平凡な我が家のボディーソープすら甘い魅惑の香りに変えてしまう。 「ごめんっ、お風呂、んっ……ンンンっ」  だから、抱きつく君を昼間でも、大勢の人が雪に困ってる中でも、襲い掛かる自信があった。  振り向きざま、こんなふうに唇を奪って、激しいキスをしてしまうってわかってた。 「んっ……ンっ、く……ンぁ、伊都」 「……」 「嬉しかった」  だから、そんな顔したら、襲い掛かっちゃうんだってば。 「チョコくれたのも、一位とってくれたのも、あの子のことじゃなくて、俺のこと」 「……」 「だから、あのね」 「日向、一位のご褒美なんだけど」  食べちゃうんだってば。口付けて、口に含んで、舐めて、飲んじゃうんだってば。 「君から口移しで、チョコ、食べさせてもらうっていう、の」 「……伊都」 「が、いいです。ご褒美」  もうすでに、今の君がご褒美だけれど。俺のトレーナーを着て薄くて細い肩が襟口から見えてしまいそうな君はとんでもないご褒美でしかないけれど。 「ぁ……」 「ダメ、でしょうか」 「あ、あのね」  頑張って堪えてる。昼間でも、この大雪でも、バレンタインだからチョコをふたりで食べるのくらいは大丈夫でしょ? 「あの……し、たい、です」 「……」 「すごく! カッコよかったんだ! あのっ」  日向が真っ赤になってた。湯にのぼせたのかと心配してしまうくらい真っ赤になって、慌てて大きな声で、俺がカッコよくて、ドキドキしたって教えてくれる。 「俺のクラスの女子だけじゃなくて、きっと、伊都のこと狙ってる女子がいっぱいいるけど、でも、俺は伊都が大好きで、誰にもあげたくなくて」 「……」 「誰にもあげられないくらい、大好きだから、その……」  大きかった声がどんどん小さくなって、そして、どんどん俺の鼓動をせわしなくさせる。 「その、やらしいこと、して?」 「……」 「伊都に、すごくやらしいこと、されたい、です」 「……」 「皆の知らない、やらしい伊都と、したい、です」  全部がダボついて、身体のラインなんてひとつも出ないほど大きな服は、逆に君の華奢な身体を想像させる。そんな君の指先はオーバーサイズの俺のトレーナーで隠れて、ちょこっと見えるだけ。湯で温まった桜色の指先が俺にぎゅっと捕まっていた。

ともだちにシェアしよう!