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第9話
「見事になんにもないんだな」
それは、要が自宅のマンションに大成を招き入れたときの第一声。
「冷蔵庫も無いのか?」
部屋をうろうろしながら大成は問い掛ける。
「すぐそこにあるコンビニと、徒歩10分位の24時間スーパー使ってます」
フローリングの床に屈むと、要は答えた。そして、そこに適当に転がっていたペットボトルのお茶を掴むと、傍に屈んできた大成に手渡す。
「夏場はどうするんだよ」
お茶を受け取った大成は苦笑する。手と手がそっと触れ合い、要は何故か大成への視線を逸らす。
「住み始めたのが去年の秋からだからなー」
体育座りの様な格好で応えると、大成は笑った。
「金持ちなのか貧乏なのかよく分からんな、要って」
そして大成も要の隣に胡座 をかいて、要の膝の上に置いた掌に、大成の掌が自然と重ねられた。
はて、なんでこのひとが自分の部屋に居るんだっけ?
それはスタジオから帰る際に要が「うちに来ませんか」なんて大成に声を掛けたからだが。なんでそんなことしたんだっけ?
要の心は謎に溢れる。だがその謎は、不安や疑惑とは違う、もっとわくわくした謎。このひと、長坂大成、という人物への好奇心、だろうか。「かなめ」なんて自分を呼ぶのも、家族とこのひとだけ……いいや、このひとだけか?
兄の真は「カナ」と呼ぶし、父親は「おまえ」と呼ぶし。そして母親は……何て呼ぶっけ、自分の事を。
真のカミングアウトを咄嗟 に庇い、同性愛者となった要には、即座 にこのマンションが与えられた。
親から勘当された訳ではないが。母親からは、
「兄を巻き込んで変な人間と付き合うなら、暫 くひとりになって頭を冷やしなさい」 みたいな言葉を投げられた。
要と真との入れ替わりの始まりは、ピアノを習い始めて一番最初の発表会で、緊張した真が飲み物を摂り過ぎて腹を壊したことだった。
「お母さんに怒られたくない」
ピアノ教室のトイレに篭 って怯えながら泣く真に、
「ぼくが真のを弾くから、真はぼくになって休め」
要はそう提案した。そして真はこっそりと教室内の空き部屋に隠れて腹を治した。
真になりきった要が演奏を終えて、「ついさっき、要は『弾きたくない』って家に帰っちゃった」と言うと、母親と講師は慌てて家に戻り。その隙を付いて教室に向かった要は、すでに回復していた真とまた入れ替わった。
本人同士に戻ったふたりが帰宅すると、やはり、母親は要を叱り付けたが。
「じゃあもうピアノは辞める」
との要の願望も、案外あっさりと受け入れた。発表会での真のピアノが、見知らぬ人からも褒められたので、機嫌は良かったのだろう……その演奏者は要だったのだが。
真は失敗から母親に叱られるのが怖くて。
要は、母親が真を叱り、真が泣き、父親が「言い過ぎだ」と母親を咎 め、母親が父親に反論し……とにかく家の中がごちゃごちゃになるのが怖かった。
それからも幾度か要は真の代打となった。真が休みたい時の補欠となった。
入れ替わりのため「自分と真は別種類の人間」というのを要は強調している。だから真が好きなピアノも興味無さげに振る舞うが、実際は要もピアノは好きだ。
そんな、幼い日からの様々な出来事を思い出すのも何故だろう。このひとがここに居るからかな? はっきりと自分の名前を呼ぶ、このひとが。
隣に座る大成の肩に寄りかかると、大成は要を見つめてきた。その視線に引っ張られるように、要は大成の身体に両腕を回して、ぎゅっと抱きしめた。すると、要の背中と後頭部に掌が添えられて。顔を上げると、大成の顔はすぐそこにあって。当たり前のように瞳を閉じると、ふたりは唇を重ねた。
こんなことをするのも、このひとが初めてだけど。
はて、なんでこんな事になったんだっけ?
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