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第4話

   満月の夜は不吉な事が起こる、らしい…… 「―― じゃあ、お疲れ様でしたぁ」   いつもの挨拶をしながら通用口の警備員詰め所前を   通り過ぎようとしたら ――    『あー倫センセーちょっと待って!』と、   若手警備員の土方に呼び止められた。 「あのぉ、コレ、とら次郎にあげて下さい」   そう言って彼が倫太朗に差し出してきたのは、   缶切り不要タイプの猫缶=キャットフードだ。 「へ? 猫缶……せっかくだけど俺、猫は飼ってないん  だけど」 「*丁目公園のとら次郎に仕事帰りいつも餌あげてる  でしょ?」   ”*丁目公園”と言われて、すぐに思い当たった。   あの、三毛猫だ。 「あぁ ―― あの仔猫ちゃんかぁ……ありがとね、  土方くん。たまには残飯じゃない物もあげたかった  から助かるよ」   改めて「じゃあ、お先に失礼します」と挨拶し、   病院を後にした。   クククッ ―― とら次郎って、あの仔猫ちゃん、   メスなんだけどなぁ……。  ***  ***   『ミーコ、ミーコ、ミーコ ――』と、しばらく   名前を連呼していると、ミーコ改めとら次郎は   いつも姿を現す、大滑り台の後ろの方から   やって来た。 「やぁ、今晩わ。今日のディナーは豪華だぞ~」   餌が本来の猫メシだと食いっぷりもかなり違って、   ***グラム程の猫缶はあっという間になくなって、   とら次郎は自分の寝ぐらへ戻って行った。   倫太朗は、   さてそろそろ自分もと重い腰を上げた時、   その、少し異質なモノに気が付いた。   今夜は満月で空には満天の星が広がっており、   街灯の少ないこの公園でも比較的すっきり確認   出来たソレは ――   滑り台の支柱に背を預ける恰好で座っていた。   ただ、座っているだけなら倫太朗も目を止める事   などなかったのだが。   その男はこの寒空の下、   薄手のシャツ1枚+スウェットパンツという軽装   でしかも、腹部は鮮血で赤黒く染まっていて、   ナイフが患部に突き刺さったままだったのだ。    (げっっ、まさか、死んでる……?)    よくよく注意して見れば、男は微かに浅く短い呼吸を    繰り返している。    死んではいないようだ。    でも、それは”まだ、死んでいない”というだけで、    こんな寒空の下へこのまま放置しておけば、間違いなく    凍死か出血多量で死ぬだろう。    あれこれ躊躇っている余裕はない。    倫太朗はその男の元へ駆け寄った。 「あのぉ。もしもし? もしも~し! 聞こえますかぁ?」 「チッ ―― るっせぇなぁ。耳元で喚くな。耳の遠い爺さん  じゃねぇんだから聞こえてるよ」   男は傷のせいで苦し気ではあるが、   意識はしっかりしていた。 「あ、良かったぁ。では、救急車呼びますね」 「あ、いや。それは遠慮する」 「えっ、でも、ナイフ突き刺さったままなんですよ」 「ハハハ ―― こんなもん、ちょちょいと唾でも付けときゃ  じき治るって」 「はぁっ??」 「それより兄(あん)ちゃん、あんた、携帯持ってたら  ちょいと貸してくれねぇか?   オレのはさっきの乱闘でお釈迦になっちまってよー」   と、男が残念そうな視線を向けた先には、   見るも無残に破壊された携帯電話の残骸が……。 「え、ええ、いいですよ」    (ひぇ~~っ、     一体どうやったらあそこまで滅茶苦茶に     破壊出来るんだぁ?)   男は倫太朗から借り受けた携帯電話で   何処かへ電話をかけた。   が、あいにく先方は何かの都合ですぐには、   迎えに来られないようだった。   チッっと舌打ちをして、不機嫌さも露わに倫太朗へ   携帯電話を突っ返してきた男に、   今更ながら倫太朗は怯える。    (この人、絶対一般人じゃないよ、こえ~……     早く帰りたいよ……) 「兄(あん)ちゃんよ、色々と世話になったな」 「い、いえ、お世話だなんて……」   そう、携帯電話を貸してあげただけや……。 「オレの事は構わんで、もう帰んな」 「えっ、でも、傷が ――」 「このオレが大丈夫ってんだから、  大丈夫なんだよっ。四の五のぬかしやがると  ここで犯すぞ。さっさと失せろ」 「は、はいっっ!!」   倫太朗は脱兎の如く一目散に逃げ出した。 ***  ***  ***   公園から数分、全力疾走してきた所で、   倫太朗はひとまず足を止め、   息を整えながら公園の方を振り返った。   あの人は、誰か助けを呼んだみたいだけど、   すぐには来られないようだった。   あのナイフの形状から推測するに、   かなりの深手だろうし。   あの出血量じゃ自力での移動は不可能だ。   もし喧嘩の相手 ―― あのナイフを刺した人が   戻ってきたらどうする気なんだろう……。   あの男が死のうが生きようが、   赤の他人の倫太朗には全く関係のない事だったが。   ちょっとでも言葉を交わした人が誰に看取られる事   もなく野垂れ死にでは、寝覚めが悪過ぎる。   医者としての使命感も倫太朗の心を揺すぶる。   ―― 俺だって医者の端くれだ。   その俺が人の命を蔑ろにしてどうするっ!   倫太朗は再び全力疾走で公園へ戻った。   男は、少し自分で移動を試みたらしく、 「ったく、なんて無茶な人なんだ」   滑り台の支柱の所からやや離れた場所で   倒れて気を失っていた。    (でもどうしよう、この人救急車をよぶのはかなり     嫌そうだったし。となると、病院もNGだろう。     あぁもうっ! こんな時に出来る事はただひとつ。     ビビるな、倫太朗)   自分で自分を叱咤しながら倫太朗は病院の方へ   駆け出した。      ハァ ハァ ハァ ハァ ――――   息せき切って舞い戻ってきた倫太朗は、   その胸元にしっかり診療カバンを抱いていた。   恐らく彼があれほどまでに救急を拒んだのは   警察の介入を恐れたからだと考えた。   今時、江戸時代の腹切りじゃああるまいし、   自分で自分の腹へ刃物を突き刺す物好きはいない。   だとすると第三者からの傷害行為と判断するのが   妥当で。   医師、看護師などの医療従事者には、通報の義務が   あるのだ。 「―― 遅くなってすみませんでした ――   体、仰向けにしますよー」   倫太朗がそう声をかけながら、   男の体を仰向けにすると、   腹部の鮮血のシミは初めて見た時よりかなり   広がっていた。   もう、時間の余裕はない。   薄っすら意識を戻した男は、倫太朗が手際よく   創傷処理の準備を進めていく姿を見ながら   こう言った。 「……兄ちゃん、あんた、医者だったのかい」 「えっと、まだ、駆け出しです……あの、本来なら俺の  ような研修医がすべき事ではないんですけど、  緊急という事でやらせて頂きます」   外科、創傷処理は今まで数え切れない位   こなしてきた。   ―― 大丈夫、俺なら出来る。   いつものようにそんな自己暗示をかけ。   頭の中で処理の手順を整理する。   この程度の施術なら、   救急救命にいた頃に何度も手がけている。   傷口を検分してから、局所麻酔をする。   次に傷口の血を洗い、消毒。   ナイフがまだ腹部に刺さったままなので、   そのナイフを抜いた時の出血が心配だが、   今のところは大きな血管に傷はついていない。   ただし、見立てでは腸は無傷とはいかないよう   だが。   施術時間:約*時間40分 ――   一番心配した大量出血はなく、   輸血も病院からこっそり持ち出してきた保存血液   パックだけで事足りた。     縫合した傷口を消毒してから、   滅菌ガーゼを当ててしっかりテープで押さえる。   これで、一通りの手当ては終えた。   男の脈拍は少し落ちてはいるが、許容範囲だ。   話しかけても意識の混濁も見られず、   ひとまず手術は無事に終わったといっていい。   怖いのは、こんな場所で手術したことによる   感染症だが、そのときはその時でしょと自分に   言い聞かせ、倫太朗は大きく息を吐き出す。   どれだけ緊張していたのか自覚はなかったが、   ワイシャツは汗でぐっしょりと濡れている。   それだけでなく辺り一面は、   消毒でさんざん使った生理食塩水で水浸しだ。   男の口調や目つき雰囲気等で、もしかしたら   ……とは思ってはいたけど。   シャツを脱がせた際、彼の背中一面に広がる   不動明王の和彫りを見た時はさすがにびっくりして   一瞬手が止まった。   今彼は、麻酔が良く効いてぐっすり眠っている。   その息遣いと顔色、脈拍を今1度確認して。   倫太朗はもう人としての義務は果たしたので、   この場から去ろうと立ち上がったが……。   何だか服を引っ張られているような   僅かな抵抗を感じて目線を下ろせば、   男の手が倫太朗のシャツの裾をギュッと   握り締めていた……。   (うふ ―― 意外に可愛いかも。    もうちょっとだけ、一緒にいてあげるね)   タッ タッ タッ タッ ――――   小走りにやって来た誰かの靴音で、   倫太朗は目が覚めた。   (あ、いっけねぇ ―― ちょっとだけっつって、    つい寝込んでしまった)   やって来たのは、   Tシャツ+デニムに派手なスタジャンを着た、   倫太朗と同い年位の青年・浜尾良守。 「あーったくもう、  兄(あに)さんってば言わんこっちゃない、  だから、当分の間筋トレは止めとけ言うたでしょー」   すると 「ったく、るっせぇな」という声が   下の方から聞こえてきて、   倫太朗は思わずギョッとした。   男も目覚めていた。 「あ、お加減はいかがですか?   傷、痛みませんか?」 「まぁ、痛むちゃあ何処もかしこもめっちゃ痛むが、  コレくらい何ちゃあない」 「そう、それは良かった……」 「どなたはんか存じませんが、この鬼束柊二ちゅう男  はね、ダンプで跳ね飛ばされても死なん男って  有名なんっすよ」 「ハハハ ―― ダンプで、ね……」 「コラ良守っ、いらん事言うなや」   柄にもなく、男は照れている。 「でも、ご自分の体はひとつしかないんです、  喧嘩もほどほどにして下さいね?   じゃ、俺はこれで」   倫太朗は2人へ深々とお辞儀をして踵を返し、   歩き出した。 「……おう、良守」 「へい?」 「あのセンセの携番とメルアドはもちろんもらって  あるな?」 「はぁっt?? ってか、兄さんの方が長く一緒だった  やないですか」 「アホっ! 年上のオレからそんなん恥ずかしゅうて  よう聞けんわ」 「はぁ~~……っ、ほな、彼に携番とメルアド教えて  もらってくればええんですね?」   と、歩き出した良守の背中へ向かって、   その男・鬼束柊二は   「名前もなー」と嬉しそうに告げたのだった。

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